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・庭野日敬氏の言葉-ご縁をかみしめる [庭野日敬師の言葉]

・庭野日敬氏の言葉-ご縁をかみしめる

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こんにちは[ぴかぴか(新しい)]

私の所では冷たい雪が降っていますが、いかがお過ごしでしょうか。

時の過ぎるのは早いもので2月も下旬にかかって来ました。

まだまだコロナの状況も、インフルエンザの感染も油断出来ない状況だと思います。

そんな時に、こころの支えになるのが庭野日敬の説く法華経ではないでしょうか。

庭野日敬の説く法華経では、強く打てば、強く帰って来ますが、弱く打てば、弱く帰って来ると教えていただいています。貴方は法華経を、どのように打ち・どのように響かせますか。

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わが身を振り返って見ると、私たち達は、様々な人たちにお世話になり、また、色々なかかわりを持ちつつ、今日を向かえる事が出来ます。そんな事を思いつつ、庭野日敬氏の言葉を思い出しましたのでご紹介します。


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- ご縁をかみしめる -

1968年(昭和43年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


私は、恩師の新井助信先生との出会いによって、法華経に導かれて目を見開かされ、そして妙佼先生という、またとない修行の友に磨かれて、今日の幸せに導いていただきました。

それにさらに、佼成会というサンガのみなさんに助けていただいて今日を迎えさせていただいているわけです。

その私と同じように、みなさんもまた、さまざまなご縁によって今日があるわけで、その縁のありがたさをもういちど振り返り、かみしめていただきたいと思うのです。

自分をこの世に生みだしてくださった両親、この法に遇いえたその縁をつくってくださった導きの親御さん、そして、どんな人も幸せに導く法をお説きくださった教主釈尊の大恩……

考えていくと、自分がどれほどの大恩によって生かされ、支えられ、導かれているか思い知らずにいられません。

ふだん、つい忘れがちな過去をあらためて検証し直して、自分が受けた恩をかみしめる瞑想修行がありますが、一年の終わりを迎えて、一日、じっくりと自分を振り返ってみたいものです。

そこから真の自他一体感がわき起こって、さらに新たな精進の決意が湧いてくるのです。

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いかがでしょうか。あなたにどのように響いたかが、大切になります。漠然と過ぎ去っていく毎日ですが、時には、心静かに「ご縁をかみしめる」事が出来たら素敵な日々になると思います。

☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆

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・人間と人間の対話-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・人間と人間の対話-庭野日敬氏のお言葉

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法華経が尊いのは、法華経自体が尊いのではありません。

その法華経を説く人が尊いことが不可欠になります。

例えば、庭野日敬氏のお話はいつ耳にしても得心が行きます。

しかし、他の庭野家の人達や、他の人たちが説く法華経は何故か

何度聞いても、私のこころには響きません。


自分でも不思議だと思っていますが、正直な気持ちです。


例えば、お金持ちのご苦労は貧乏な人にはわかりません。

また、貧乏な人のご苦労はお金持ちにはわかりません。

ちょっとさみしい例えですが、そんな時だと思います。


以下のお話も、法座の大切さが忘れられている昨今ですが、心に沁みるお話だと思います。


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開 祖 さ ま 随 感

      1986年(昭和61年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

人間と人間の対話

いま宗教にいちばん問われているのは、

人間と人間の真の対話を可能にできるかどうか、

だといえましょう。


法座はその対話の場なのです。


どんな問題であっても、

話したいこと、

聞きたいことがある人がいたら、

その言い分をとことん聞いてあげて、

「なるほど」と心から納得してもらえるまで話してあげる。

それが法座です。


相手の言葉をひと言ふた言聞いただけで、

「あとは聞かなくたって分かっていますよ」といった

調子で決めつけてしまったのでは、

人間の対話は成立しません。


お釈迦さまは、

お弟子がどんな質問をしてきても、

「善哉、善哉」と、

ひと言でなく、ふた言も重ねておほめになって、

それから「善男子よ……」と、

じゅんじゅんと語りかけてくださいました。


ですから、お釈迦さまにお会いできただけで、

どんな人もいっぺんに心が晴れわたってしまうのです。

すべての人が、

それぞれの尊厳さを具えた存在であることを

胸にしっかり刻みつけて、

相手を心から礼拝できなくては、人間の対話は成り立ちません。

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いかがでしょうか。

あなたのこころに、どのように響きましたか、

あなたは、先ほどの貧乏人やご苦労が多い方の声を真摯に聞くことが出来ていますか。

そこが、ポイントだと思います。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡
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・宗教に対する誤解一 庭野日敬のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・宗教に対する誤解一 庭野日敬のお言葉

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こんにちは。。

今日の体調はいかがですか、

穏やか日和になりましたね。

寒暖差の大きい季節ですが、少しずつです春の香りが漂うようになって来ました。

私は、一年間の中で四季折々どの季節も好きですが、その中でも木々行く芽吹く春が一番好きです。

あなたはいかがですか、

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

庭野日敬氏の著書を拝読させていただきますと、常に一本の筋がしっかりと通っていて、とても気持ちよく拝読させていただきます。

しかし、他の庭野家の人達や教団関係の方のお話や印刷物は、なかなかそうは行きません。

解せない内容であったり、時には嫌悪感を感じる事さえあります。

自分で不思議だと思っています。

こんな私が変なのか、と思う時もあります。

何が違うのだろうか、と思う事がありますが自分でも良く分かりません。

ただ一点、思い当たる事と言いますと、法華経に取り組む姿勢が違うのでは、と思っています。

具体的に言いますと、

庭野日敬氏は法華経に命を掛けて取り組んで来た方です。

法華経の真髄は、そんな過程をくぐり抜けてこないと理解出来ない事が多いのです。

ところが、法華経をあまく捉えて(法華経の研鑽が甘いと)、表面上の体裁だけに捉われている事になり、法華経の真髄には触れる事が出来ません。

その結果が、人々の救済や人助けではなく、教団組織や信者さんたちを管理する事に重きを置く、組織に変貌していくのではと懸念しています。

庭野日敬氏は、一教団の枠を超えて、世の中の人々の幸せとは何なのか、どうする事が人々の幸せに繋がるのかを考え、己の身をもって実践をされました。

そんな、庭野日敬氏の思いや願いの一端に触れてみたいと思います。

こころを静めながら庭野日敬氏の思いを味わってみましょう。

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開 祖 さ ま 随 感

      1973年(昭和48年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


「人間の道」の教育


現代に宗教は必要ないと極論する人がいます。

そういう人は、宗教をごく狭く解釈しているのだと思うのです。

自分の人生が順調にいっているとき、

人は「すべてのことは自分の力で解決できる。信仰など必要ない」と考えます。

ところが深刻な問題にぶつかると、

こんどは藁をもつかむ思いで呪術的な迷信にすがり、

それで自分が願うような結果が得られないと、

「宗教などまやかしだ」と否定してしまうのです。


どちらも宗教に対する誤解です。


人はだれしも心の深いところで、

いかに生きるべきか、

何を目的として生きるのが正しいかと、

人間の真実の道を求めています。

その希求が、すでに宗教なのです

何か特別の儀式とか、祈祷だけが宗教信仰ではありません。

その人間の道が、最高の人格である仏と、

この世界の万物をあらしめている真理の法と、

互いに磨き合う人びとのつどいである

僧の三宝に帰依することによって、

すべての人のものになると仏教は教えるのです。


国をつくるのは人間であり、人間をつくるのは教育です。


その教育で「真の宗教とは何か」を教えることが、

なによりも大切だと思うのです。 

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いかがでしょうか。


何か、こころに響く事があったでしょか。


こころとは響き合う事がとても大事になります。


その響きを大切にしながら日々の精進を積み重ね行きましょう。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆

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・目覚めたる者-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・目覚めたる者-庭野日敬氏のお言葉

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「我、覚者とならん!」

私に、この言葉を投げかけたのは、明るい社会づくり活動の元佐藤秀裕塾長の後を引き受けて、全国拓塾の塾長に着任した故 坂本尭塾長でした。

⇒ 明るい社会づくり運動の全国拓塾の塾長に着任した故 坂本尭塾長の言葉

坂本 堯 氏とは、
  かわかりやすく言いますと、
  ドイツから帰国後、キリスト教と立正佼成会の重要な橋渡しをされた方です。
  また、庭野光祥氏の海外留学の筋道を立てた方です。


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故 坂本尭塾長のおっしっている「我、覚者とならん」の覚者について庭野日敬氏は以下に記するように、端的に、かつ明確にお話下さっています。

只、現在ではそのような気概を持って、臨んでいる方が少ないように受け止めています。

先日、このブログで書かせていただきましたように、
⇒ 「お釈迦さまへの直参」についても、あまりその様な事を考える事の意味が、分からない方が多いのではないでしょうか。

例えば、教師がサラリーマン化していくように、仏教従事者(出家者)もサラリーマン化していく傾向がありますので、法華経を深く掘り下げて学び・行ずる事より、当たり障りのない日々を過ごしていく事に重きを置いているようです。

すると、在家者はそこに従う事になります。
その様になって行くのには、現在の宗教のトップ指導者のあり方にも課題はあります。

とても、残念ですが、このような時の流れも末法のさせる業ではないでしょうか。

さて、その様な現在の時の流れですが、

庭野日敬氏は、目覚めたる者について以下のように述べています。

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開 祖 さ ま 随 感

      1969年(昭和44年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


目 覚 め た る 者


仏教とは、いうまでもなく仏さまの教えですが、それともう一つ、仏になるための教えともいえると思うのです。

仏さまの教えによって仏になる、それが仏教です。

仏になるとは覚者(かくしゃ)になることであり、覚者とは、つまり「法に目覚めた者」ということです。

信仰を一生懸命やっていると、
想像もしていなかったような好結果をいただくことがあります。そうしたときに「ああ、信仰はありがたい」と歓喜しますが、

それはまだ本当の喜びとはいえません。

自分の願いがかなった喜びの、
いわゆるご利益(りやく)信仰ですから、よい結果が出なくなると、「なんだ。信仰しても、なんの功徳もないじゃないか」と、不満を抱く人間に逆戻りしかねないのです。

ご利益が頂けた頂けなかったと、その結果に一喜一憂(いっきいちゆう)するのではなく、この世のあらゆるものごとが縁起(えんぎ)によって生滅(しょうめつ)していることを知り、自分の毎日に起こるすべてのことが、その大法則にのっとっていることを理解する。

その真理に目覚めた者になってこそ、不退転(ふたいてん)の常精進(じょうしょうじん)ができるようになるのです。

:::::::::::::::::::::::::

故 坂本 堯 氏フリー百科事典(Wikipedia)ヨリ

日本の神学者、精神医学者、聖マリアンナ医科大学名誉教授

略歴
兵庫県生まれ。上智大学文学部哲学科卒業、1960年同大学院修士課程修了。1959年から1968年まで、西ドイツを中心としてヨーロッパ各地に留学。1963年聖ゲオルク神学哲学大学卒、1968年国立ケルン大学哲学博士、Ph.D.取得。1970年上智大学文学部助教授となり、1972年独協医科大学教授、1974年聖マリアンナ医科大学教授を経て、1998年定年、名誉教授。患者のスピリチュアル・ケアを行う。

著書
『西洋思想史 近代への懸け橋を探る』エンデルレ書店 1972
『カトリックと日本人』1973 講談社現代新書
『クザーヌス 宇宙精神の先駆』春秋社 1986
『新・カトリックと日本人』フリープレス 2001
『哲学的スピリチュアル・ケア入門 無情な現代精神医療を斬る』クロスメディア・マーケティング 2012

共著
『二人称の死 最愛の人の死をどうとらえるか』棚橋實,大倉民江共著 研成社 1999

翻訳
マリア・モンテッソーリ『人間の形成について』エンデルレ書店 1970
ニコラス・クザーヌス『隠れたる神』大出哲共訳 創文社 1972
『キリスト教神秘主義著作集 第10巻 クザーヌス』酒井紀幸,岩田圭一共訳 教文館 2000
ウルスラ・アヴェ=ラルマン『バウムテスト 自己を語る木:その解釈と診断』渡辺直樹,野口克巳共訳,投影描画法テスト研究会責任編集 川島書店 2002


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・諸法実相と十如是についてー庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・諸法実相と十如是についてー庭野日敬氏のお言葉

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庭野日敬氏の説く法華経はとてもわかりやすい教えです。

只、その庭野日敬氏の説く法華経を、聞いてる方の機根によって聞こえて来る姿が変わって来ます。

例えばスパゲッティで言うと、
スパゲッティは、どなたでもご存知のお料理ですが、スパゲッティを食べたことが無い方に、いくらスパゲッティの味を丁寧に説明をしても、なかなか分かっていただく事は難しいです。

ところが、黙って一口食べていただければ、その味は、一目瞭然になります。

その様に、庭野日敬氏の説く法華経を実践しない方には、どうしても雲をつかむようなお話になってしまいます。

また、スパゲッティの種類は一種類ではありません。たくさんのスパゲッティの種類がある事が、瞬時に理解出来ます。

庭野日敬氏の説く法華経は単純明快、

特に最近では、教団の代表者や教団関係であっても、庭野日敬氏の説く法華経を実践しない、出来ない方がいる事を、とても残念に思っています。

役職は一切関係ない!
そこで大切な事は、教団の代表者や教団関係の方、さらに協会長さんや支部長さん、また末端の会員さん等の役職は庭野日敬氏の説く法華経の世界では一切関係ありません。

具体的には、末端の会員さんであっても、法華経を実践する方には結果・現象が変わりますので、幸せな日々を送る事が出来ます。

教団の代表者や教団関係であっても、法華経を実践しない方は結果・現象が変わりませんので、いつまでも、闇の世界にとどまる事になります。

今日は、そんな観点で法華経の要の教えの一つになります、諸法実相と十如是について、以下のように述べている内容をご紹介いたします。

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:::::::::::::::::::::::::


 諸法実相と十如是について 

      
昭和51年4月号 機関紙 求道


東大の名誉教授で官本正尊というかたがいらっしゃいます。

印度哲学の大家で印度学仏教学会の理事長でもある立派なかたです。

今から二十年くらい前になるでしょうか、

私はその宮木先生に十如是の理(ことわり)についてお聞きしたことがあります。

そうしましたら、先生いわく「庭野さん、そんなもの説いたって、だれにもわかりゃしないよ。」と言われます。

そこで重ねてどうしてですか、とお閲きしますと、先生はこう言われました。

「たとえば、東大の生徒にいくら説いたって、十如是なんてわかりやしない、そんなものを説いて立正佼成会の信者はわかるのかい」。(中略)


そのように、頭のいい人を相手に、頭の秀でた印度哲学の大家が、いくら説いて聞かせてもわからないものも、お導きをした人にはその十如是の縁起がすらすら説けるのです。

なぜかと言いますと、それは仏の慈悲、仏の友情から出た体験をもっているからです。

この娑婆はみんなの集まり、集合体によって、成り立っています。

ひとりひとりが、たいせつな友達です。

人間同士がお互いに友情を持って〃この人を幸せにしてあげたい〃と思えはこそ、法門を説いて、自分の体験を話して導こうとするわけです。

ですから、人を救うという活動をしていない人には、十如是はわからないのです。


お経だけを一生懸命に読んで、勉強しているだけという人には、いくら印仏学会の理事長が説いてもわからない。

なのに、私どものような落第生が人さまに向かって説かせていただくと、みんなわかる、

というのは不思議なことに思えますが、それが仏さまの法力なのです。


お導きの功徳がそこにあるのです。

人さまに幸せになってもらうために、手をとってさしあげよう、と一生懸命になってご法を実践している人が、十如是の縁起を聞くと、なるほど、ここはこうなのか、そしてここはこうなっているのか、とすぐにわかってしまう。

「この人のこういう現象の是の如き相、是の如き性、是の如き体、力、作、困、縁は、こういうことなんだ。この人の力はこういぅことで、作はこのようであり、それが原因となって、このような縁にふれ、このような果報を受けているのだ」と、そこまではっきりしてきます。

仏さまもそういうことを悟られて、どのように教えたら人間の、また物事の実態がよくわかるかを考えられて十如是を説かれたのです。


ですからこれは、お釈迦さまの説法の中でも、最も大事な難しい教えだと言われております。


方便品にある「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう」というお言葉も、この十如是のことがわかるとはっきりしてきますし、法華経のおおよその構想までがつめてくるのであります。
                       

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

いかがでしょうか。

この事は、近年衰退が危惧されてる佼成会さんの法座や結びにも言える事です。


具体的に言いますと、「法座が成立しない、」「結びを指導できる方がいない、少ない。」等の、その危機感を果たして、どの程度もっているのでしょうか。

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・成仏の条件 - 庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・成仏の条件 - 庭野日敬氏のお言葉

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おはようございます

朝早く起きて家の雪かきを終えました。久しぶりの雪かきでしたので数日後には筋痛が待っています。それよりも、無事に近所の人たちと雪かきを終えた安堵感が大きいです。

これから、お風呂に浸かり汗を流してから、今日の業務に掛かりました。

場所によっては足元がしっかりするまでは要注意。

体調に気を付けながら、素敵な一日にしていきましょう


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

庭野 日敬氏のお言葉はいつも心に響きます。

それは、いつも私たちの心を見透かされているかのように感じます。

いま、ウクライナやイスラエルの戦争で連日、テレビや新聞,インターネット,SNS等で様々な出来事が報道されていますので、どうしても私たちのこころは浮足立ってしまいがちです。

現在、コロナの感染拡大やインフルエンザの感染拡大が広がっています。各地で学級閉鎖や学校閉鎖が広がっていますが、マスコミは、その事をほとんど報道していません。

そんな中で、一歩踏みどどまって冷静に、ご自身の足元を見渡してみる事はとても大切な事です。


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開 祖 さ ま 随 感

      1968年(昭和43年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

成 仏 の 条 件


お釈迦さまは、「生まれによって聖職者となるのではない。行為によって聖職者となる」というお言葉で、人間の尊さは、その人自身の行為によって決まると教えられました。

お金持ちの家に生まれ、立派な学歴を持っていても、過ちを犯し、それを恥じることのない人もいます。

それに比べ、貧しい家に生まれても、毎日コツコツと働いて、人さまのために役立つ苦労を惜しまない人もいます。

どちらがすぐれた人か、言うまでもありません。

人が集まれば、そこに組織というものが必要になり、その組織を運営するために、いろいろな役職が設けられます。

会社ならば、社長、部長、課長、社員と、立場は分かれますが、

社長は社長の仕事を、

部長は部長の仕事を、

社員は社員の仕事を成し遂げる。

それが組織全体に貢献することであり、その尊さに上下の違いはありません。

その働きによって自分を高めていくのが、そのまま成仏の道といってもいいのです。

役職や立場の高低によって、悟りの度合いが違うわけではありません。

与えられた役をどれだけ果たすことができたかということが問題なのです。

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いかがでしょうか。

自己中心的な自己ではなく、

もうちょっと広いこころで世の中を見て行く事は、とても大切なことだと思います。

そんな意味でも、庭野日敬氏が明るい社会づくり運動を提唱する意義があると思います。

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・仏法は無力か-庭野日敬氏のお言葉 Is Buddhism powerless?‐Words from Nikkei Niwano [庭野日敬師の言葉]

・仏法は無力か-庭野日敬氏のお言葉
・Is Buddhism powerless?‐Words from Nikkei Niwano

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今日から立春になり暦の上では、寒さを峠を越えた事になりますが、まだまだ寒い日が続きます。
Today marks the first day of spring, and although according to the calendar we have passed the cold, there are still many cold days ahead.

体調に気を付けながらお過ごし下さい。
Please take care of your health.

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


庭野日敬氏の教えは、私の人生の大きな心の支えになっています。
Mr. Nikkei Niwano's teachings have been a great support in my life.

長い人生には上り坂もあれば、下り坂もあります。また、まさかと言う坂まであります。そんな人生の折り目や節目の様々な出来事の中で、迷う時や、戸惑う時、たじろぐ時など、庭野日敬の説く教えを紐解きながら歩んで来ました。
In a long life, there are ups and downs.There's even a hill that you wouldn't expect.In the midst of such various events at the folds and milestones of life, when I was lost, confused, and faltering, I have walked through the teachings of Nikkei Niwano.

今日は庭野日敬氏の、こんな言葉が私の胸の響きましたのでお知らせを致します。
Today, I would like to share with you the words of Mr. Nikkei Niwano that resonated with me.

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開 祖 さ ま 随 感
The feeling of being the founder

      1969年(昭和44年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

仏 法 は 無 力 か
Is Buddhism powerless?


今日、仏教はすでに大衆を救う力を失ってしまった、という人がいます。
Some people today say that Buddhism has already lost its power to save the masses.

これは、とんでもない間違いだと思うのです。
I think this is a huge mistake.

大衆を救う力が仏法になくなったのではありません。
It is not that Buddhism has lost its power to save the masses.

しかし一方、仏法をしっかりと持ち、日常の生活上に実践している人が少なくなっていることも残念ながら認めざるを得ません。
However, on the other hand, we must regrettably admit that there are fewer and fewer people who firmly hold Buddhism and put it into practice in their daily lives.

たとえば交通事故は、人が交通法規を守らないために起こるわけですが、同じように、人も人の道を守らないがゆえに苦しみや不幸に自ら突き当たってしまうわけです。
For example, traffic accidents occur because people do not obey traffic laws, and in the same way, people also find themselves in pain and misfortune because they do not obey other people's roads.

その人の道の根本義を示すのが仏法で、その道をあゆめばみんなが幸せになれるのに、多くの人がそれを知らずに不幸に陥っているのです。
Buddhism shows us the fundamental meaning of a person's path, and if we follow that path, everyone can be happy, but many people are unaware of this and end up in unhappiness.

ですから、私たち仏教徒が人の道にのっとって生活し、その姿を世の人びとに見てもらうことが、まずもって大事です。
Therefore, it is first and foremost important for us Buddhists to live our lives in accordance with the human way, and to let the world see us as such.

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毎日の生活で法に示されたとおりに実践すると人は、どれほど幸せになれるか、それを自らの姿で示せる人間になることが、私たち仏教徒のつとめです。
It is our duty as Buddhists to become people who can demonstrate through our own images how happy people can be if they practice the Dharma in their daily lives.

仏法の縁に触れ、その教えを聞いても、それを守り、実践することがなくては、自分の幸せもなく、仏教徒としてのつとめも果たすことはできないのです。
Even if you come into contact with Buddhism and hear its teachings, if you do not protect and put them into practice, you will not be happy and will not be able to fulfill your duties as a Buddhist.

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その当時でも、そのとうりだったと思いますが現代社会でも言えていることだと思います。
I think this was true back then, and I think it's also true in today's society.

とても、大切なことをおっしゃっています。
You are saying something very important.

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・人のあるべき道-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・人のあるべき道-庭野日敬氏のお言葉

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明日は節分ですね。

旧暦の上では「立春」が一年の始まりににります。そして前日の節分は、大晦日にあたります。

大晦日に、鬼に豆をぶつけることで1年間の邪気を払い、新しい年の無病息災を願う行事として、豆まきが現在でも行われていますね。

命が芽吹き始め、新しい始まりを表す春。

新しい1年が良い年になりますようにとの、願いを込めて春の節分が行事として残ったのだそう。

そんな、私達の大切な節目の行事を大切にしていきたいと思っています。

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


庭野日敬氏の説く法華経は単純明快でとてもわかりやすいです。只、その庭野日敬の説く教えを受け取る私達の心のありようがポイントです。そこで、今回は「人のあるべき道」について、とても分かりやすい具体的に事例に基づいてお話していきます。

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庭野師の提唱した明るい社会づくり運動は失敗に終わった

と、私にお話してくれたのは全国協議会N事務局長さんでした。

数年前に、中野区にあります全国協議会の事務局を訪れた時の事です。そして、「各都道府県の協議会を順次解散していただく為に準備を進めている。」との事。

私は自身の耳を疑いました

「そんな馬鹿な事はないはずです」、「資料を見ればそんな事はないはずです」、「以前の資料を見せていただけませんか」と言うと、N事務局長は、「以前の資料は引っ越しの時に破棄してしまいましたので、ここにはもうありません。」との事でした。

何度も、何度も、何度も、同じような質問をしました

しかし、事務長さんは同じ事を繰り返すばかりでした。「結論はすでに出ている。」

「そんな・・・・・・・・・・・。」

「馬鹿な・・・・・・・・・・・。」

その帰りに開祖記念館を訪れましたが、世界宗教者平和会議の展示はありましたが、明るい社会づくり運動の展示はありませんでした。

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私の地元の山梨の状況を調査

そこで、まず私の地元の山梨の状況を調査して見ると、以下の状況でした。

当時の、山梨県明るい社会づくり活動協議会の会長さんは、県知事をなさっていた天野建氏(故人)でした。天野建氏(故人)は県知事をなさる前から、明るい社会づくり運動にはとても熱心で、協力的に参加をなさる方でしたが、県知事になられてからは公務にお忙しい為に時間の間をぬって参加していただいていました。そして、県知事を退任されてから、明るい社会づくり運動に参加する事を、とても楽しみにしていたと側近の方から伺いました。

突然に届いた一通の封書

「山梨県明るい社会づくり運動協議会・会長の解任」との内容通知が届いたようです。その事にとても驚いた天野建氏(故人)は「どうなっているのか。」と状況の説明を求めたとの事でした。おそらく、天野建氏(故人)には事前に何の説明も、同意も、相談も、何も求めずに、いわば「蚊帳の外」の状態で、明るい社会づくり運動の解体作業が進められたようです。

後日談ですが、
当時の山梨県の明るい社会づくり運動の、気心の知れたお仲間達の集まりの席で天野建氏(故人)は、山梨の明るい社会づくり運動の解体劇をとてもとても残念がっていたとの事でした。「せめて、山梨県協議会の明るい社会づくり運動の解散式をやって終わりにしたかった」とお話されていたようです。

神奈川県協議会では、

また、神奈川県協議会の明るい社会づくり運動においては、N事務局長さんが、横浜に訪れ神奈川県の明るい社会づくり運動の解体を懇願していたようです。当時の神奈川県連の事務局長さんからのお話しですが、神奈川県協議会の明るい社会づくり運動は、解体をせざるを得ない状況のお話だったようです。当時の、神奈川県協議会の明るい社会づくり運動の会長さんはクリスチャンの方でしたが、とてもとても残念で悔しがっていたようです。

全国の都道府県全てではなく

このような状態は、全国の都道府県全てではなく、ある種のリストに基づいて行われたようですので、現在でも、都道府県協議会が活動を行っている地域もありますので、何らかの意図に基づいて、都道府県協議会の解体作業が行われたようです。また、他の地域では、別の意図をもった都道府県協議会が立ち上がっているようです。

一方では、都道府県協議会を解体に追い込み、また他方では都道府県協議会の設立を行っているようです。

このような状態の、明るい社会づくり運動ではとても支持は出来ないと判断され、その後に何も言わずに、明るい社会づくり運動から距離を置く方が増えて行きました。私の友人知人の中でも、明るい社会づくり運動から離れて行った方が多い現実があります。
特に、山梨県協議会と神奈川県協議会は、明るい社会づくり運動の模範的な先進県でしたので・・・・・・、

このようなお話は、庭野日敬氏の心情をご存じの方からすると、とても信じ難いお話です。

また、あってはならない事です

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法華経をどこで受け止めているのでしょうか

このような実態は、法華経を信受している庭野日敬氏のお弟子さん達のする事とは、とても思えません。今後、明るい社会づくりを進めて行く為には、より多くの賛同者やご協力をいただかない事には始まりません。明るい社会づくりを考える時、まった逆の事をしているのではないでしょうか。明るい社会づくりは、一団体では出来るものではない事は多くの方が承知している事です。ですから、より多くの方々から賛同してもらえる活動体にならなくてはいけません。自分たちの好きかってな自己満足の活動では、多くの方の賛同はいただけない事は小学生でもわかる事です。

私は思います

明るい社会づくり運動は、庭野日敬氏の「明るい社会を、皆で築きましょう。」との、並々ならぬ情熱と行動力、また、各界の多くの賛同者の方々のご支援やご協力と、長い長い時間を掛けてここまで築き上げて来たのもです。ごく一部の人達の意見や考えで、庭野日敬氏の願いや思いとは別の方向へ持っていく事は断じて許してはならないと思います。
特に、明るい社会づくり運動にご協力いただいた方々に対して、その行為や思いを裏切るような事は、断じてあってはならないと考えます。

もし、「庭野日敬師の提唱した明るい社会づくり運動が失敗に終わった。」と、するならば、それは、どなたが、「庭野日敬師の提唱した明るい社会づくり運動が失敗に終わらせる。」との、シナリオを描かかない限りあり得ないと、私は思っています。

その後の担当者は、

その後、当時の責任担当者は教団の役員になっています。また、全国協議会N事務局長さんは昇進しています。

私は、知っています。

誰が指示をして、誰が実行したか。

また、その事を容認したのは誰か。

でも、その事はあえて言いません。

あなたは、この事実を平気で見過ごして行きますか。

法華経は因果応報を説いている

いままで、骨身を惜しんで頑張って来た方々を、後ろからバッサリと切り捨てるような事をしてしまった事の因果とは、どのようになって行くのでしょうか。庭野日敬氏は、法華経を基に活動を繰り返して来た方です。その法華経には、この事をどのように説いているのかを理解しているのでしょうか。法華経を、理解出来る方にははっきりとわかる事です。

庭野日敬師は、昭和45年の『開祖随感』の中で次の事をおしゃっています。


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開 祖 さ ま 随 感

1970年(昭和45年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

人のあるべき道

昨今は、たとえどんなことをしても、それが法律に触れさえしなければいいのだと、ずいぶんあくどいことをしたり、人をだましてなんとも思わない人が多くなってきたように思えます。

しかも、「法律に触れる罪を犯せば悪人だが、自分はそんなことはしていない」と、少しも恥じるところがない人もいるのです。善悪のけじめが、いかに低い次元に落ちてしまったか、嘆かされます。

一方では、人が月にまで行けるほどの高度な技術を開発しながら、現代の社会は人間の心の開発をなおざりにしすぎたのではないでしょうか。月に到達するには軌道に乗らなくてはならないように、人の心もまた軌道に乗らなくては、理想の境地に到達できません。

お釈迦さまは、その人間がのっとるべき心の軌道を教えてくださったのです。無軌道な生き方を自由であるかのように錯覚している現代社会にあって、私たちは法律を超えた高い次元での人のあるべき道を示していかなくてはならないのです。

よほどの決意で取り組まなくてはなりません。

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また、庭野日敬師は昭和四十四年の「躍進」で次の事をおしゃっています。

~~~~~~~~~~~~~~

いまの世の中に一番求められているのは、「人間の自尊心、個人の主体性、社会的責任に訴えかけてエネルギーを引き出し、個人の努力が社会全体の進歩に寄与するような活動を促す、精神の復興連動のリーダーである」
「明るい社会はだれかがつくってくれるというものではない、気のついた人、目覚めた人がまず立ち上がって行動を開始し、他の人々にも根気よく呼びかけていかなければならない」「より良き未来に向かって進んでいると信じられる時には、人は山をも動かしますし、反対にもし希望がもてなければ、人は沈潜し腐敗する」

~~~~~~~~~~~~~~

もう40年近くの前のお話ですが、現在にあてはめても違和感のないお話だと思いませんか。


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また、以下の事も述べています。

~~~~~~~~~~~~~~

「山田恵諦貌下が常におっしゃっていた

『よいことは長く続く。よくないことでないと長続きしない』ということです。法華経というのは二もなく三もなく『一仏乗』なんです。仏さまの願いというものは、すべての人を仏の境地へ導き、本当の幸せにしてあげたいという一事につきるんです。『草木国土悉皆成仏』という言葉がありますように「人間はむろん、草も木も水も士もすべて仏になれるんです。」

そして、「そういうことです。いわば、明るい社会づくりの大導師は仏さまなんですよ。」

とおしゃっています。

【結び】

庭野日敬氏の説く「人のあるべき道」に付いて、具体的な事例に基づいてお話をさせていただきましたが、ご理解いただく事は出来たいでしょうか。

こころ静かに考えて下さい。

多くの方を裏切って来た事を、こころからお詫びし、改心する事が庭野日敬氏の願いではありませんか、また、その事が御仏様の願いだと思います。

その為にも、真摯な対応をする事が不可欠になります。

こらからの時代に担う方々の為にも、この汚点を払拭する事を切に願っています。

庭野日敬師の提唱した、明るい社会づくり運動を失敗に終わらせる事など私には、断じて考えられません。

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・個人主義と利己主義-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・個人主義と利己主義-庭野日敬氏のお言葉

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おはようございます。

月日の流れは早いもので、.1月も明日で終わりです。特に、年令を重ねて来ますとさらに早く感じます。

また、一時的落ち着いたように思われていました、新型コロナウイルス肺炎の感染者の増加やインフルエンザの感染者の増加も懸念されています。

油断しないで気持ちを引き締めてかからないといけない時です。

うがい・手洗いは当然ですが、マスクの着用などさらに気を付けなくてはいけません。

そんな時期に庭野日敬氏のお言葉を目にしましたので、掲載をさせていただきました。

もう45年程前の開祖随感の中で、おしゃっている事ですが不思議と今でも当てはまる事が多いのではないでしょうか。


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開 祖 さ ま 随 感

      1975年(昭和50年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

個人主義と利己主義

現代は個人主義の時代といわれます。

個人主義というと、

独善的で自分のことしか考えない主義のように考えられがちですが、

本当の個人主義は、

一人ひとりの人間の主体性を尊重し、

互いに他人に迷惑をかけないという考え方、生き方です。

ところが現在の日本の個人主義は、

他人に迷惑をかけてはならないといった配慮はまったくなく、

ただ自分さえよければいいという生き方を

個人主義と勘違いしている人が多いように思うのです。

他人や全体のことを考えない自分本位は、

個人主義ではなく、利己主義です。

利己主義というと、

自分の利益のためには人を蹴落(けお)としてもかまわないといった、

あこぎな生き方を考えますが、

それだけでなく、自分の幸せ、一家の幸せだけを考えて

人のことまで心配している暇(ひま)はない、

と考えるのもまた利己主義です。

うっかりすると私たちはすぐその利己主義に陥ってしまうのですが、

お釈迦さまは逆に、

自分の幸せを守りたかったら人さまの幸せを考えなさい、

と教えるのです。

不思議なことに、

それによって知らぬまに自分が幸せになってしまうのです。

教えどおり実践してみると必ずそれが分かります。


^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^


いかがですか。

あなたには、どのように響きましたか。

私は、その響きが大切になると思います。

お互い様に頑張りましょう。



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・羅針盤となる教えの大切さ、瀉瓶無遺より-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・羅針盤となる教えの大切さ、瀉瓶無遺より-庭野日敬氏のお言葉

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私の背中を押し続ける方がいます。その方が、どこのどなたなのか、私には知る術がありません。その事について、私自身にも葛藤がありますが、その方に導かれる事によりこのブログを綴っています。

庭野日敬氏は、法華経を、私達凡夫にも、とても分かりやすく伝えています。また、後々の世の人たちの為に膨大な書物を残しています。その、どの書物を手にしても庭野日敬氏の真心が伝わって来ます。

その中で、世の中の現在の状況を、只、只、見守る事だけしか出来ない教団を、とても、悲しく・寂しく思っています。

世の中は、いつまでも同じ状態ではいません。諸行無常、時の流れは日々前に進んで行きます。時代の最先端を歩むのではなく、時代の流れに沿って歩む事が必須になります。

今、何をすべきか。今、何が出来るのか。模索しつつ、可能な活動を始める時ではないでしょうか。私の背中を押し続ける方からは、そんな声が伝わって来ます。

今日は、そんな中から瀉瓶無遺に綴られている一説をご紹介いたします。

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羅針盤となる教えの大切さ

瀉瓶無遺  佼成出版社 発行:1993.11  P128~129


 
地球をはじめとして星にもそれぞれ軌道があるように、人間にも人間として守るべき倫理規範というか歩むべき道があります。もしも、この世に基準となるべき物差しや秤がなかったならは、私たちは社会生活をスムー ズに営むことはできません。

とかく人は、実現できない大きな目標を単なる理想論にすぎない、といって片つけてしまいがちですが、理想があればこそ、それをめざして歩くことができ、また自分の足りなさを省みることができるのです。

とくに大乗仏教では、到達するということよりも、それに向かって歩きつづけること自体(精進)を、尊く、大切なものとしております。

私たちは星に行くことはできませんが、夜空に星が輝いていればこそ暗夜の旅路を迷みずに歩けるのです。人がこの世に生きるためには、羅針盤となる教えが必要です。

そういう意味で人間としての理想像である仏さまを恭敬(くぎょう)する大切さがあるわけです。その理想像に比べて自分かいかに未熟であり、足りないだらけであるかを知ることができます。だからこそ、人から「謙虚になりなさい」と言われなくても、おのずから謙虚になれるのだと思うのです。

仏教学者の中村元先生が、「愚かなる者も自分は愚かであると知っていれば、それは賢者である。愚者でありながら、しかも自分は賢者であると思う者こそ愚者と言うべきである。」という『法句経』に一部を紹介しておられました。

私は足りない人間だと謙虚さを忘れないことこそ、そして真正直であること、それが人間成長に欠かせない要件だと私は思うのです。

:::::::::::::::::::::::::

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いかがでしょうか。このブログは、多くの教団関係者の方々も見ている事と思っています。只、黙って指導部からの指示に従っていれば良いのではありません。

自らが、自らの、信念に従って法華経に書かれている事を行動に移さなくては、お釈迦様や庭野日敬氏や法華経を裏切る事になります。

法華経とは、だれかに言われたから始めるのは初心者の歩む道です。

いつまでも、初心者であってはならない。

法華経とは、菩薩の発心の教えとも言われています。〖注-1〗
      自ら、行動を起こす事を説いています。
      自ら、行動を起こす事により共鳴者が現れます。
      この事が法輪を転ずる事に繋がっていきます。

仏飯をいただくものとして、〖注-2〗恥ずべき事が無いように行動すべきと考えています


〖注-1〗発心とは、
(仏語。 悟りを得ようとする心を起こすこと。 菩提心 (ぼだいしん) を起こすこと。 仏門に入ること。)参考-菩薩の発心について-大谷大学のページ

〖注-2〗仏飯をいただくもの
(仏様の事をして生計を立てている人。例-僧侶・宗教や教団等の関係者)


瀉瓶無遺 佼成出版社 発行:1993.11
瓶の水を一滴も残さず次の瓶に移すように、立正佼成会の教えを次の世代に伝えたいという願いが、書名『瀉瓶無遺(しゃびょうむい)』にこめられています。仏教徒として、佼成会員として守り伝えるべき信仰の核心について、信仰者の毎日の行の一つひとつについて、具体的に説き示されています。


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