・宗教に対する誤解一 庭野日敬のお言葉 [庭野日敬師の言葉]
・宗教に対する誤解一 庭野日敬のお言葉
こんにちは。
空は曇っていますが、朝の雨は上がりました。
でも、天気予報では午後からも降ると言っていますが・・・・・・、
雨は、私たちにとってジメジメとしてうっとうしい存在ですが、目を転じて見ると、晴天続きで雨が少ないこの春は自然の草花にとって恵みの雨になりますね。
私は、一年間の中で四季折々どの季節も好きですが、その中でも木々行く芽吹く春が一番好きです。
あなたはいかがですか、
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
世の中とは面白いもので、人それぞれにどんな立場・どんな環境・どんな思いや考え等に、あるのか否かで、まるっきり考え方が変わってしまうようです。
そんな日々の中で、庭野日敬氏の著書を拝読させていただきますと、常に一本の筋がしっかりと通っていて、とても気持ちよく拝読させていただきます。
しかし、庭野家の人達や教団関係の方のお話や印刷物は、なかなかそうは行きません。
解せない内容であったり、時には嫌悪感を感じる事さえあります。
自分でも不思議だと思っています。
こんな私が変なのか、と思う時もあります。
何が違うのだろうか、と思う事がありますが自分でも良く分かりません。
ただ一点、思い当たる事と言いますと、法華経に取り組む姿勢が違うのでは、と思っています。
具体的に言いますと、
庭野日敬氏は法華経に命を掛けて取り組んで来た方です。
法華経の真髄は、そんな過程をくぐり抜けてこないと理解出来ない事が多いのです。
ところが、法華経をあまく捉えて(法華経の研鑽が甘いと)、表面上の体裁だけに捉われている事になり、法華経の真髄には触れる事が出来ません。
その結果が、人々の救済や人助けではなく、教団組織や信者さんたちを管理する事に重きを置く、組織に変貌していくのではと懸念しています。
庭野日敬氏は、一教団の枠を超えて、世の中の人々の幸せとは何なのか、どうする事が人々の幸せに繋がるのかを考え、己の身をもって実践をされました。
そんな、庭野日敬氏の思いや願いの一端に触れてみたいと思います。
こころを静めながら庭野日敬氏の思いを味わってみましょう。
:::::::::::::::::::::::::
開 祖 さ ま 随 感
1973年(昭和48年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より
「人間の道」の教育
現代に宗教は必要ないと極論する人がいます。
そういう人は、宗教をごく狭く解釈しているのだと思うのです。
自分の人生が順調にいっているとき、
人は「すべてのことは自分の力で解決できる。信仰など必要ない」と考えます。
ところが深刻な問題にぶつかると、
こんどは藁をもつかむ思いで呪術的な迷信にすがり、
それで自分が願うような結果が得られないと、
「宗教などまやかしだ」と否定してしまうのです。
どちらも宗教に対する誤解です。
人はだれしも心の深いところで、
いかに生きるべきか、
何を目的として生きるのが正しいかと、
人間の真実の道を求めています。
その希求が、すでに宗教なのです。
何か特別の儀式とか、祈祷だけが宗教信仰ではありません。
その人間の道が、最高の人格である仏と、
この世界の万物をあらしめている真理の法と、
互いに磨き合う人びとのつどいである
僧の三宝に帰依することによって、
すべての人のものになると仏教は教えるのです。
国をつくるのは人間であり、人間をつくるのは教育です。
その教育で「真の宗教とは何か」を教えることが、
なによりも大切だと思うのです。
:::::::::::::::::::::::::
いかがでしょうか。
何か、こころに響く事があったでしょか。
こころとは響き合う事がとても大事になります。
その響きを大切にしながら日々の精進を積み重ね行きましょう。
☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆
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こんにちは。
空は曇っていますが、朝の雨は上がりました。
でも、天気予報では午後からも降ると言っていますが・・・・・・、
雨は、私たちにとってジメジメとしてうっとうしい存在ですが、目を転じて見ると、晴天続きで雨が少ないこの春は自然の草花にとって恵みの雨になりますね。
私は、一年間の中で四季折々どの季節も好きですが、その中でも木々行く芽吹く春が一番好きです。
あなたはいかがですか、
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
世の中とは面白いもので、人それぞれにどんな立場・どんな環境・どんな思いや考え等に、あるのか否かで、まるっきり考え方が変わってしまうようです。
そんな日々の中で、庭野日敬氏の著書を拝読させていただきますと、常に一本の筋がしっかりと通っていて、とても気持ちよく拝読させていただきます。
しかし、庭野家の人達や教団関係の方のお話や印刷物は、なかなかそうは行きません。
解せない内容であったり、時には嫌悪感を感じる事さえあります。
自分でも不思議だと思っています。
こんな私が変なのか、と思う時もあります。
何が違うのだろうか、と思う事がありますが自分でも良く分かりません。
ただ一点、思い当たる事と言いますと、法華経に取り組む姿勢が違うのでは、と思っています。
具体的に言いますと、
庭野日敬氏は法華経に命を掛けて取り組んで来た方です。
法華経の真髄は、そんな過程をくぐり抜けてこないと理解出来ない事が多いのです。
ところが、法華経をあまく捉えて(法華経の研鑽が甘いと)、表面上の体裁だけに捉われている事になり、法華経の真髄には触れる事が出来ません。
その結果が、人々の救済や人助けではなく、教団組織や信者さんたちを管理する事に重きを置く、組織に変貌していくのではと懸念しています。
庭野日敬氏は、一教団の枠を超えて、世の中の人々の幸せとは何なのか、どうする事が人々の幸せに繋がるのかを考え、己の身をもって実践をされました。
そんな、庭野日敬氏の思いや願いの一端に触れてみたいと思います。
こころを静めながら庭野日敬氏の思いを味わってみましょう。
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開 祖 さ ま 随 感
1973年(昭和48年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より
「人間の道」の教育
現代に宗教は必要ないと極論する人がいます。
そういう人は、宗教をごく狭く解釈しているのだと思うのです。
自分の人生が順調にいっているとき、
人は「すべてのことは自分の力で解決できる。信仰など必要ない」と考えます。
ところが深刻な問題にぶつかると、
こんどは藁をもつかむ思いで呪術的な迷信にすがり、
それで自分が願うような結果が得られないと、
「宗教などまやかしだ」と否定してしまうのです。
どちらも宗教に対する誤解です。
人はだれしも心の深いところで、
いかに生きるべきか、
何を目的として生きるのが正しいかと、
人間の真実の道を求めています。
その希求が、すでに宗教なのです。
何か特別の儀式とか、祈祷だけが宗教信仰ではありません。
その人間の道が、最高の人格である仏と、
この世界の万物をあらしめている真理の法と、
互いに磨き合う人びとのつどいである
僧の三宝に帰依することによって、
すべての人のものになると仏教は教えるのです。
国をつくるのは人間であり、人間をつくるのは教育です。
その教育で「真の宗教とは何か」を教えることが、
なによりも大切だと思うのです。
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いかがでしょうか。
何か、こころに響く事があったでしょか。
こころとは響き合う事がとても大事になります。
その響きを大切にしながら日々の精進を積み重ね行きましょう。
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タグ:庭野日敬
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