・お釈ま迦さまが説かれた私達の歩むべき道について-庭野日敬のお言葉 [庭野日敬師の言葉]
・お釈迦さまが説かれた私達の歩むべき道について-庭野日敬のお言葉

9月も半ば過ぎますと夜明けが、ずいぶんと遅くなって来ました。でも、残暑は続いています。先日、トイレの給水用のタンクがお湯になってしました(*_*)。猛暑で体調の崩れやすい時期ですが、無理をしないでお過ごし下さい。
そして、素敵日にしていきましょう
庭野日敬氏の説く法華経の教えはとても素晴らしいです。
具体的に言いますと、とても分かりやすく説いて下さる事です。さらには、行動や実践しやすい事です。そんな事を踏まえて今回は、庭野日敬の説く法華経を理論や理屈ではなく、こころ穏やかに真心で味わってみたいと思います。
きっと、新たな発見があると思います。
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お釈迦さまが説かれた歩むべき道について
行動につながらない教学は無意味です。実際に人間を救うことにつながらない宗教は、無さに等しいのです。従地涌出品は、そのことを強く教えているのです。経文には「この菩薩達は、もと姿婆世界の下の虚空に住していた」とあります。
ということは、人間世界に生きていなから、そして立派な悟りと人格を持ちながら、それを人間救済のために発動することがなかった・・・・・ということなのです。つまり、行動につながらない悟りと、他を救うということにかかわらない人格の持ち主だった、というわけです。
それが、お釈迦さまの呼びかけに応じて、いっせいに大地をくぐり抜けて出てきました。この大地をくぐり抜けるということが、また大事なのです。

現実の社会生活を体験する、
現実の社会生活を体験し汚濁と苦悩の中にあえいでいる大衆の中に飛び込み、その苦しみ、悩みにじかに触れなければ、現実に人を救うことはできないということです。
観念論だけではだめで、
観念論だけではだめで、現実に即さなければ人間は救えないということです。現実に即するということは、結局は、行動するということになります。地涌の菩薩達の指導役である四大菩薩に、上行 ・ 無辺行 ・ 浄行 ・ 安立行と、すべて「行」 という名がつけられています。
ということは、つまり、地涌の菩薩とは行動する菩薩だということなのです。行動しない菩薩というものはあり得ないわけですけれども、それが特に強調され、行動の権化ともいうべき存在が地涌の菩薩なのです。

地涌の菩薩の片鱗
そうした点から見ますと、今度(註・昭和53年5月)の青年部員の行動(註・「青年の日・統一行動」)は、地涌の菩薩の片鱗をのぞかせた立派なものでした。清掃奉仕・献血・交通安全キャンペーン・交通遺児のための募金・独居老人の慰問等々、時代のニーズに応えたすばらしい菩薩行です。
そういった行動を通じて「青年達は、地涌の菩薩の自覚をおぼろげながらつかむことができた」ということですが、それは当然のことなのです。
もともと本質的に地涌の菩薩なのですから・・・・・・・。
本人達は、まだ自覚していなくても、立正佼成会の青年部の皆さんは、そうした自覚を持つぺく、必然的な宿命を持ってこの世に生まれてきているのです。
過去世において、
生まれ変わり、死に変わりした過去世において、仏法に触れ、道を究めることを志願し、その修行を続けてきた、いわゆる歴劫修行(りゃこうしゅぎょう)の道程にある人達です。それが、しかるべき因縁をもってこの世に生れ、佼成会に入会されたのです。

現代の科学教育を受けた人の中には、
と言うと、現代の科学教育を受けた人の中には絵空事のように思う人があるかもしれませんが、これは事実なのです。事実それがなければ、お釈迦さまが、いろいろな経典で輪廻転生や歴劫修行を説かれるはずはありません。あのような大覚者はチャンとそのことを見とおしておられたのです。
仏さまの超能力である六道の中に「宿命通」というのかあります。前の世のことを知る能力です。そうした能力を持っておられればこそ、法華経の中でも何十か所かにおいて、ご自身やお弟子達の過去世のことをお説きになっておられるのです。

例えば、
〇譬喩品には、「舎利弗、我昔汝をして仏道を志願せしめき」とおおせられ、
〇化城諭品では、大通智勝仏時代の十六王子のことを述べられ、「第十六は我釈迦牟尼仏なり」とお話しになっています。
〇提婆達多品では、大法を教えた仙人が提婆で、仙人の召硬として仕えた国王が、ご自分であったことを明らかにされ、
〇常不軽菩薩品では、「爾の時の常不軽菩薩は荳に異人ならんや、則ち我が是れなり」と、おおせられています。
このような「人間は死んでもまた他の生命に生まれ変わる(転生輪廻) 「転生しながら人格完成(作仏)へ の修行を続ける(歴劫修行)」という事実を前提としてこそ、舎利弟を初めとする多くのお弟子達に、汝はこれこれの時代に生まれ変わり、これこれの仏に仕えて修行したのち、仏の悟りを得るであろとって・・・・・と保証された「授記」が成り立つのです。

今、現実の形態はどうであれ、
人間は今、現実の形態はどうであれ、その根底においては、人格完成という聖なる目的のために生きるのです。生まれ変わり、死に変わり、修行の旅を続けるのです。人は、すべてこの本願をもって、この世に生まれてきているのです。
自分を次第に見失っていきます。
ところが、さまざまな環境に影響されて次第に汚れをかぶってしまい、その自分を次第に見失っていきます。ですから、地涌の菩薩たらんと志願するということは、この汚れを洗い清め、純粋な無垢清浄な自己の本性に戻ること、と言ってもいいでしょう。
今、生きる人々に即して、
それを現代に生きる人々の生き方に即して言うならば、これまでの既成概念に毒されて、宗教の違い、人種の違い、国の違いなどで人々を区別して見るのではなく、この世のあらゆる人々の本性、宗教の役割の本質をしっかりと見とおしていける人となることであり、そうした人こそ地涌の菩薩たり得る人と言っていいと思うのです。

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9月も半ば過ぎますと夜明けが、ずいぶんと遅くなって来ました。でも、残暑は続いています。先日、トイレの給水用のタンクがお湯になってしました(*_*)。猛暑で体調の崩れやすい時期ですが、無理をしないでお過ごし下さい。
そして、素敵日にしていきましょう
庭野日敬氏の説く法華経の教えはとても素晴らしいです。
具体的に言いますと、とても分かりやすく説いて下さる事です。さらには、行動や実践しやすい事です。そんな事を踏まえて今回は、庭野日敬の説く法華経を理論や理屈ではなく、こころ穏やかに真心で味わってみたいと思います。
きっと、新たな発見があると思います。
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お釈迦さまが説かれた歩むべき道について
1978年(昭和53年5月号)躍進
行動につながらない教学は無意味です。実際に人間を救うことにつながらない宗教は、無さに等しいのです。従地涌出品は、そのことを強く教えているのです。経文には「この菩薩達は、もと姿婆世界の下の虚空に住していた」とあります。
ということは、人間世界に生きていなから、そして立派な悟りと人格を持ちながら、それを人間救済のために発動することがなかった・・・・・ということなのです。つまり、行動につながらない悟りと、他を救うということにかかわらない人格の持ち主だった、というわけです。
それが、お釈迦さまの呼びかけに応じて、いっせいに大地をくぐり抜けて出てきました。この大地をくぐり抜けるということが、また大事なのです。

現実の社会生活を体験する、
現実の社会生活を体験し汚濁と苦悩の中にあえいでいる大衆の中に飛び込み、その苦しみ、悩みにじかに触れなければ、現実に人を救うことはできないということです。
観念論だけではだめで、
観念論だけではだめで、現実に即さなければ人間は救えないということです。現実に即するということは、結局は、行動するということになります。地涌の菩薩達の指導役である四大菩薩に、上行 ・ 無辺行 ・ 浄行 ・ 安立行と、すべて「行」 という名がつけられています。
ということは、つまり、地涌の菩薩とは行動する菩薩だということなのです。行動しない菩薩というものはあり得ないわけですけれども、それが特に強調され、行動の権化ともいうべき存在が地涌の菩薩なのです。

地涌の菩薩の片鱗
そうした点から見ますと、今度(註・昭和53年5月)の青年部員の行動(註・「青年の日・統一行動」)は、地涌の菩薩の片鱗をのぞかせた立派なものでした。清掃奉仕・献血・交通安全キャンペーン・交通遺児のための募金・独居老人の慰問等々、時代のニーズに応えたすばらしい菩薩行です。
そういった行動を通じて「青年達は、地涌の菩薩の自覚をおぼろげながらつかむことができた」ということですが、それは当然のことなのです。
もともと本質的に地涌の菩薩なのですから・・・・・・・。
本人達は、まだ自覚していなくても、立正佼成会の青年部の皆さんは、そうした自覚を持つぺく、必然的な宿命を持ってこの世に生まれてきているのです。
過去世において、
生まれ変わり、死に変わりした過去世において、仏法に触れ、道を究めることを志願し、その修行を続けてきた、いわゆる歴劫修行(りゃこうしゅぎょう)の道程にある人達です。それが、しかるべき因縁をもってこの世に生れ、佼成会に入会されたのです。

現代の科学教育を受けた人の中には、
と言うと、現代の科学教育を受けた人の中には絵空事のように思う人があるかもしれませんが、これは事実なのです。事実それがなければ、お釈迦さまが、いろいろな経典で輪廻転生や歴劫修行を説かれるはずはありません。あのような大覚者はチャンとそのことを見とおしておられたのです。
仏さまの超能力である六道の中に「宿命通」というのかあります。前の世のことを知る能力です。そうした能力を持っておられればこそ、法華経の中でも何十か所かにおいて、ご自身やお弟子達の過去世のことをお説きになっておられるのです。

例えば、
〇譬喩品には、「舎利弗、我昔汝をして仏道を志願せしめき」とおおせられ、
〇化城諭品では、大通智勝仏時代の十六王子のことを述べられ、「第十六は我釈迦牟尼仏なり」とお話しになっています。
〇提婆達多品では、大法を教えた仙人が提婆で、仙人の召硬として仕えた国王が、ご自分であったことを明らかにされ、
〇常不軽菩薩品では、「爾の時の常不軽菩薩は荳に異人ならんや、則ち我が是れなり」と、おおせられています。
このような「人間は死んでもまた他の生命に生まれ変わる(転生輪廻) 「転生しながら人格完成(作仏)へ の修行を続ける(歴劫修行)」という事実を前提としてこそ、舎利弟を初めとする多くのお弟子達に、汝はこれこれの時代に生まれ変わり、これこれの仏に仕えて修行したのち、仏の悟りを得るであろとって・・・・・と保証された「授記」が成り立つのです。

今、現実の形態はどうであれ、
人間は今、現実の形態はどうであれ、その根底においては、人格完成という聖なる目的のために生きるのです。生まれ変わり、死に変わり、修行の旅を続けるのです。人は、すべてこの本願をもって、この世に生まれてきているのです。
自分を次第に見失っていきます。
ところが、さまざまな環境に影響されて次第に汚れをかぶってしまい、その自分を次第に見失っていきます。ですから、地涌の菩薩たらんと志願するということは、この汚れを洗い清め、純粋な無垢清浄な自己の本性に戻ること、と言ってもいいでしょう。
今、生きる人々に即して、
それを現代に生きる人々の生き方に即して言うならば、これまでの既成概念に毒されて、宗教の違い、人種の違い、国の違いなどで人々を区別して見るのではなく、この世のあらゆる人々の本性、宗教の役割の本質をしっかりと見とおしていける人となることであり、そうした人こそ地涌の菩薩たり得る人と言っていいと思うのです。
そういう力によって、
初めて明るい社会づくり、平和世界の建設が進められていくのです。

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