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・奉仕できる喜び-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・奉仕できる喜び-庭野日敬氏のお言葉

おはようございます[ぴかぴか(新しい)]

お目覚めはいかがですか、

雨の朝になりました。ちょっと強めにふっています!

足元に気を付けないといけませんね。

晴れもまたよし、雨もまたよし、

季節の変化を感じながら、素敵な一日にしていきましょう。

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庭野日敬氏のお言葉は、いつ拝読させていただきましても新鮮に心に響きます。

インフルエンザや、コロナウイルス肺炎の事で不安が残る日々ですが、自身の心を点検する事もとても大事な事だと思います。

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開 祖 さ ま 随 感

      1967年(昭和42年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


奉仕できる喜び


人はふつう、自分が人に奉仕するのはあまり好きではなく、人から奉仕してもらうほうがうれしいように思っています。しかし、それは心のほんの表面上のことで、心の深いところでは、人はむしろ人に奉仕することを欲しているものです。

どんなことでもいい、実際に人さまのために尽くして、それで相手の人に喜んでもらえると、それがよく分かるのです。「なんで、子どものことで、こんな苦労をしなければならないんだろう」と愚痴をこぼしていた親でも、子どもが一人前になって巣立ってしまうと、空虚な思いに陥ってしまいます。

世話をしてあげる人がだれもいなくなると、「ああ楽々した」という思いよりも、虚脱感に襲われてしまうのです。さらに、体が不自由になって、だれにも、なにもしてあげられず、ただ周囲からしてもらうだけの身になってしまったら、どんなに寂しい思いになるかしれません。

そう考えてみると、自分が人さまに役立てることが、どんなにうれしいことか分かってきます。

それが人間の本当の生き甲斐なのです。


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いかがでしょうか

大切な事は、自身の足元ではないでしょうか。「自分だけが幸せになれば良い」と言う考え方から「一歩踏み出勇気が 今、求められる」います。

多くの方が不安な日々を送っています。

身近な知人や友人に、出来るだけ多く声を掛けて上げて下さい。

「どうしているの!」


「大丈夫!」


声を掛けもらえるだけで元気になります。


勇気が出て来ます。


その事が菩薩行になります。


黙っていては菩薩ではありません。



その時に支えになるのが「法華経」になります。

庭野日敬氏の真の勇気は「法華経」に支えられていました。

ですので、

身命を惜しまず邁進して来れたのではないでしょうか。


「法華経」とは、

個人の救いではなく

菩薩の実践を説いた教えになります。


お互い様に頑張りましょう。



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・作仏への感涙-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・作仏への感涙-庭野日敬氏のお言葉

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ストレス社会の影響や、コロナウイルス肺炎やインフルエンザの影響で不安定な日々をお過ごしの事と思います。そんな中で、自分個人や組織だけの幸せを考える時に、根本仏教で充分だと言われています。

〇根本仏教とは(四諦・八正道・三法印 等)、

では何故、法華経が必要でしょうか。

〇法華経とは菩薩様が仏になる為の道を示した教え、です。

 その事が菩薩行と言われています。

何故、こんな事を言うかと言いますと、自身が(組織が)幸せになる為であれば法華経は必要ありません。菩薩行とは、自身の事を犠牲にしながら、世の中の為、人様の為に努力する事です。

すから、その功徳が甚大なのです。

その事が法華経には説かれています。その先に、仏様の働きや手助けなどの働きが見えてくるのです。そんな事を庭野日敬は、開祖随感の中でこんな言い方をしながら、私達に伝えて下さっています。

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開 祖 さ ま 随 感

      1994年(令和6年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

作仏への感涙

「日蓮はなかねどもなみだひまなし」というご聖人のお言葉があります。

その日蓮聖人の涙は、法華経に遇うことができて必ず成仏できることを保証されたわが身のありがたさに打ち震える涙なのです。

このお言葉は、佐渡に流されて再び生きて帰れるかどうか分からない、日々の中で著わされた『諸法実相鈔』の中のお言葉です。その流罪の地の生活は、刑場の近くに建てられた、わずか畳二畳分の、壁はくずれ落ち、雪が降り積もって消えることがないというお堂での毎日でした。

しかし、日蓮聖人はその流罪の大難さえも、法華経を身に体して読ませてもらえるお手配と受け止められているのです。この経に「如来の全身います」とあります。

本当の感激をもって法華経を読むと、仏さまが目の前で一語一語、私たちに語りかけてくださるお声が聞こえてきます。

欲得にとらわれ、毀誉褒貶(きよほうへん)に振り回されて、些細なことで一喜一憂していた人生観がガラリと変わってしまいます。

人間として生を享けることができた喜びに、じっとしていられなくなってくるのです。

この大歓喜を生じてこそ人は作仏(さぶつ)できるのです。

貴方はいかがでしょうか。

☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡
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・宗教に対する誤解一 庭野日敬のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・宗教に対する誤解一 庭野日敬のお言葉

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おはようございます。

今日のお天気は不安定なようです。明け方は強い雨でしたが、しばらくすると青空が見えて来ましたので、このまま晴れるのか思いましたら、黒い雲が広がっていました。
こんな時は要注意です。体調に気を付けながらお過ごしください。

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庭野日敬氏の著書を拝読させていただきますと、常に一本の筋がしっかりと通っていて、とても気持ちよく拝読させていただきます。

しかし、他の庭野家の人達や教団関係の方のお話や印刷物は、なかなかそうは行きません。

解せない内容であったり、時には嫌悪感を感じる事さえあります。

自分で不思議だと思っています。

こんな私が変なのか、と思う時もあります。

何が違うのだろうか、と思う事がありますが自分でも良く分かりません。

ただ一点、思い当たる事と言いますと、法華経に取り組む姿勢が違うのでは、と思っています。

具体的に言いますと、

庭野日敬氏は法華経に命を掛けて取り組んで来た方です。

法華経の真髄は、そんな過程をくぐり抜けてこないと理解出来ない事が多いのです。

ところが、法華経をあまく捉えて(法華経の研鑽が甘いと)、表面上の体裁だけに捉われている事になり、法華経の真髄には触れる事が出来ません。

その結果が、人々の救済や人助けではなく、教団組織や信者さんたちを管理する事に重きを置く、組織に変貌していくのではと懸念しています。

庭野日敬氏は、一教団の枠を超えて、世の中の人々の幸せとは何なのか、どうする事が人々の幸せに繋がるのかを考え、己の身をもって実践をされました。

そんな、庭野日敬氏の思いや願いの一端に触れてみたいと思います。

こころを静めながら庭野日敬氏の思いを味わってみましょう。

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開 祖 さ ま 随 感

      1973年(昭和48年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


「人間の道」の教育


現代に宗教は必要ないと極論する人がいます。

そういう人は、宗教をごく狭く解釈しているのだと思うのです。

自分の人生が順調にいっているとき、

人は「すべてのことは自分の力で解決できる。信仰など必要ない」と考えます。

ところが深刻な問題にぶつかると、

こんどは藁をもつかむ思いで呪術的な迷信にすがり、

それで自分が願うような結果が得られないと、

「宗教などまやかしだ」と否定してしまうのです。


どちらも宗教に対する誤解です。


人はだれしも心の深いところで、

いかに生きるべきか、

何を目的として生きるのが正しいかと、

人間の真実の道を求めています。

その希求が、すでに宗教なのです

何か特別の儀式とか、祈祷だけが宗教信仰ではありません。

その人間の道が、最高の人格である仏と、

この世界の万物をあらしめている真理の法と、

互いに磨き合う人びとのつどいである

僧の三宝に帰依することによって、

すべての人のものになると仏教は教えるのです。


国をつくるのは人間であり、人間をつくるのは教育です。


その教育で「真の宗教とは何か」を教えることが、

なによりも大切だと思うのです。 

:::::::::::::::::::::::::


いかがでしょうか。


何か、こころに響く事があったでしょか。


こころとは響き合う事がとても大事になります。


その響きを大切にしながら日々の精進を積み重ね行きましょう。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆

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・法を盾にする人-庭野日敬氏の言葉 [庭野日敬師の言葉]

・法を盾にする人-庭野日敬氏の言葉

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おはようございます。

秋の足音も次第に大きくなり、稲刈り〓も始まる季節になって来ました。すると、新米が出てきますね。新米の美味しいさは、格別です。

また、この季節は美味しい物がたくさん出てきます。食べ過ぎにも気を付けながら素敵日にしていきましょう。

ふっと、庭野日敬氏のこんな言葉を思い出しました。

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法を盾にする人

キリスト教では「神の下僕(しもべ)」という言葉を使い、

仏教では「仏の子」とか「仏弟子」といいますが、

信仰者にとっていちばん大切なのは、

絶対なる真理と、

その具現(ぐげん)者である

神仏に帰依する心でしょう。

奉仕とは、

読んで字のごとく「仕え奉る」ことです。

仏さまのみ心をわが心とし、

仏さまの教えを日々の生活に実行いたします、

という誓いが、

仏さまに仕え奉る出発点です。

ところが、

神仏に仕え奉る下僕、

仏さまのお弟子であることを忘れて、

法の威(い)を借りて自らを高しとし、

自分をまわりの人に

押しつけるような態度をとる人が、

ときどきいるのです。

それでは、

自分の欲望やわがままを通す道具として

法を利用していることになってしまいます。

うっかりすると、

すぐその過ちに陥ってしまうのです。

信仰者とは、

あくまでも神仏に仕える者として、

自らを律する心を忘れない人のことです。

それを忘れると、

法を立てているつもりが、

法を盾にとって

自分を立てることになってしまいかねません。

くれぐれも戒めなくてはなりません。  
                
1968年(昭和43年)

庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

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いかがでしょうか。

私自身も、

佼成会さんとご縁をいただき、

また、明るい社会づくり運動に携わるようになり、

様々な局面に遭遇する事がありましたが、

とても、大切な事であり、

自分自身にも戒めなくていけない事だと、

こころの常に留めておりますが、


あなたは、いかがだったでしょうか。



お互い様に、

自身の心に刻んで置きたい一言だと思います。

☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆

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・大事をなす人とは、- 庭野日敬師のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・大事をなす人とは、- 庭野日敬師のお言葉

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おはようございます[ぴかぴか(新しい)]

お目覚めはいかがですか、

「暑さ寒さも彼岸まで」と、よく言ったものです。とても爽やかな朝になりました。日中も、以前よりは過ごしやすい日になるようです。

体調に気を付けながら、素敵な一日にしていきましょう。

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

「どこまで馬鹿になりきれる事が出来るのか」が私自身の課題だと思っています。

それは、口先は綺麗な事を言っていても、その内心は自身の思惑や損得ばかりを考えている方々をたくさん見て来た事もあると思います。

様々なタイプの人達と触れ合う中で自然とそのように考えるようになりました。

また、逆に「私は自身の思惑や損得で動くのだ」と言っている方もいますが、その人の方が正直で、嘘を言わない分いいかなとも思う時もあります。

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色々なタイプや考え方がありますが、庭野日敬師は、以下の事をおしゃっていますが、あなたはどう思いますか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私はいつも、みなさんに「ばかになれ」とおすすめするのです。

もちろん「ばか」といっても、愚か者のことではありません。

現代人は、毎日、知識のシャワーを浴びているようなもので、

頭のよい人、利口な人ばかりが多くなっているようです。


頭がよすぎると、人の言うことがばからしくて聞けなくなります。


人の言うことを素直に信じることができなくなり、

なにごとも先を見通せるつもりで、

「そんなことは、とても不可能だ」と決めつけ、

初めから手をつけようとしない、といった生き方になりがちなのです。


それにひきかえ、利口ぶらない人は、

みんなが「できない」と決めてしまうことでも、

「これが正しい道ならば」とコツコツと手がけて、

ついに大事を成し遂げてしまうのです。


これが、私の言う「ばかになる」ことです。


初めのうちは、

「あんなことをやっても、むだなのに」と冷ややかに見ていた人たちが、

うならずにいられなくなってしまうわけです。

自ら志願してばかになりきる、その心のゆとりこそが大切なのです。   


庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


あなたは、どのように思いますか。



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・人のあるべき道-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・人のあるべき道-庭野日敬氏のお言葉

こんばんは。[ぴかぴか(新しい)]

秋の便りが聞こえてくる今日この頃ですが、体調はいかがですか。

私は、秋と言うと小布施の栗を思い出します。秋は、美味しい物のたくさんありますが、可笑しいですね。

お天気も不安定のようでが、素敵な週末にしていきましょう。

庭野日敬氏の説く法華経は単純明快でとてもわかりやすいです。只、その庭野日敬の説く教えを受け取る私達の心のありようがポイントです。そこで、今回は「人のあるべき道」について、とても分かりやすい具体的に事例に基づいてお話していきます。

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庭野師の提唱した明るい社会づくり運動は失敗に終わった

と、私にお話してくれたのは全国協議会N事務局長さんでした。

数年前に、中野区にあります全国協議会の事務局を訪れた時の事です。そして、「各都道府県の協議会を順次解散していただく為に準備を進めている。」との事。

私は自身の耳を疑いました

「そんな馬鹿な事はないはずです」、「資料を見ればそんな事はないはずです」、「以前の資料を見せていただけませんか」と言うと、N事務局長は、「以前の資料は引っ越しの時に破棄してしまいましたので、ここにはもうありません。」との事でした。

何度も、何度も、何度も、同じような質問をしました

しかし、事務長さんは同じ事を繰り返すばかりでした。「結論はすでに出ている。」

「そんな・・・・・・・・・・・。」

「馬鹿な・・・・・・・・・・・。」

その帰りに開祖記念館を訪れましたが、世界宗教者平和会議の展示はありましたが、明るい社会づくり運動の展示はありませんでした。

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私の地元の山梨の状況を調査

そこで、まず私の地元の山梨の状況を調査して見ると、以下の状況でした。

当時の、山梨県明るい社会づくり活動協議会の会長さんは、県知事をなさっていた天野建氏(故人)でした。天野建氏(故人)は県知事をなさる前から、明るい社会づくり運動にはとても熱心で、協力的に参加をなさる方でしたが、県知事になられてからは公務にお忙しい為に時間の間をぬって参加していただいていました。そして、県知事を退任されてから、明るい社会づくり運動に参加する事を、とても楽しみにしていたと側近の方から伺いました。

突然に届いた一通の封書

「山梨県明るい社会づくり運動協議会・会長の解任」との内容通知が届いたようです。その事にとても驚いた天野建氏(故人)は「どうなっているのか。」と状況の説明を求めたとの事でした。おそらく、天野建氏(故人)には事前に何の説明も、同意も、相談も、何も求めずに、いわば「蚊帳の外」の状態で、明るい社会づくり運動の解体作業が進められたようです。

後日談ですが、
当時の山梨県の明るい社会づくり運動の、気心の知れたお仲間達の集まりの席で天野建氏(故人)は、山梨の明るい社会づくり運動の解体劇をとてもとても残念がっていたとの事でした。「せめて、山梨県協議会の明るい社会づくり運動の解散式をやって終わりにしたかった」とお話されていたようです。

神奈川県協議会では、

また、神奈川県協議会の明るい社会づくり運動においては、N事務局長さんが、横浜に訪れ神奈川県の明るい社会づくり運動の解体を懇願していたようです。当時の神奈川県連の事務局長さんからのお話しですが、神奈川県協議会の明るい社会づくり運動は、解体をせざるを得ない状況のお話だったようです。当時の、神奈川県協議会の明るい社会づくり運動の会長さんはクリスチャンの方でしたが、とてもとても残念で悔しがっていたようです。

全国の都道府県全てではなく

このような状態は、全国の都道府県全てではなく、ある種のリストに基づいて行われたようですので、現在でも、都道府県協議会が活動を行っている地域もありますので、何らかの意図に基づいて、都道府県協議会の解体作業が行われたようです。また、他の地域では、別の意図をもった都道府県協議会が立ち上がっているようです。

一方では、都道府県協議会を解体に追い込み、また他方では都道府県協議会の設立を行っているようです。

このような状態の、明るい社会づくり運動ではとても支持は出来ないと判断され、その後に何も言わずに、明るい社会づくり運動から距離を置く方が増えて行きました。私の友人知人の中でも、明るい社会づくり運動から離れて行った方が多い現実があります。
特に、山梨県協議会と神奈川県協議会は、明るい社会づくり運動の模範的な先進県でしたので・・・・・・、

このようなお話は、庭野日敬氏の心情をご存じの方からすると、とても信じ難いお話です。

また、あってはならない事です

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法華経をどこで受け止めているのでしょうか

このような実態は、法華経を信受している庭野日敬氏のお弟子さん達のする事とは、とても思えません。今後、明るい社会づくりを進めて行く為には、より多くの賛同者やご協力をいただかない事には始まりません。明るい社会づくりを考える時、まった逆の事をしているのではないでしょうか。明るい社会づくりは、一団体では出来るものではない事は多くの方が承知している事です。ですから、より多くの方々から賛同してもらえる活動体にならなくてはいけません。自分たちの好きかってな自己満足の活動では、多くの方の賛同はいただけない事は小学生でもわかる事です。

私は思います

明るい社会づくり運動は、庭野日敬氏の「明るい社会を、皆で築きましょう。」との、並々ならぬ情熱と行動力、また、各界の多くの賛同者の方々のご支援やご協力と、長い長い時間を掛けてここまで築き上げて来たのもです。ごく一部の人達の意見や考えで、庭野日敬氏の願いや思いとは別の方向へ持っていく事は断じて許してはならないと思います。
特に、明るい社会づくり運動にご協力いただいた方々に対して、その行為や思いを裏切るような事は、断じてあってはならないと考えます。

もし、「庭野日敬師の提唱した明るい社会づくり運動が失敗に終わった。」と、するならば、それは、どなたが、「庭野日敬師の提唱した明るい社会づくり運動が失敗に終わらせる。」との、シナリオを描かかない限りあり得ないと、私は思っています。

その後の担当者は、

その後、当時の責任担当者は教団の役員になっています。また、全国協議会N事務局長さんは昇進しています。

私は、知っています。

誰が指示をして、誰が実行したか。

また、その事を容認したのは誰か。

でも、その事はあえて言いません。

あなたは、この事実を平気で見過ごして行きますか。

法華経は因果応報を説いている

いままで、骨身を惜しんで頑張って来た方々を、後ろからバッサリと切り捨てるような事をしてしまった事の因果とは、どのようになって行くのでしょうか。庭野日敬氏は、法華経を基に活動を繰り返して来た方です。その法華経には、この事をどのように説いているのかを理解しているのでしょうか。法華経を、理解出来る方にははっきりとわかる事です。

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庭野日敬師は、昭和45年の『開祖随感』の中で次の事をおしゃっています。

開 祖 さ ま 随 感

      1970年(昭和45年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


人のあるべき道

昨今は、たとえどんなことをしても、それが法律に触れさえしなければいいのだと、ずいぶんあくどいことをしたり、人をだましてなんとも思わない人が多くなってきたように思えます。

しかも、「法律に触れる罪を犯せば悪人だが、自分はそんなことはしていない」と、少しも恥じるところがない人もいるのです。善悪のけじめが、いかに低い次元に落ちてしまったか、嘆かされます。

一方では、人が月にまで行けるほどの高度な技術を開発しながら、現代の社会は人間の心の開発をなおざりにしすぎたのではないでしょうか。月に到達するには軌道に乗らなくてはならないように、人の心もまた軌道に乗らなくては、理想の境地に到達できません。

お釈迦さまは、その人間がのっとるべき心の軌道を教えてくださったのです。無軌道な生き方を自由であるかのように錯覚している現代社会にあって、私たちは法律を超えた高い次元での人のあるべき道を示していかなくてはならないのです。

よほどの決意で取り組まなくてはなりません。

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また、庭野日敬師は昭和四十四年の「躍進」で次の事をおしゃっています。

~~~~~~~~~~~~~~

いまの世の中に一番求められているのは、「人間の自尊心、個人の主体性、社会的責任に訴えかけてエネルギーを引き出し、個人の努力が社会全体の進歩に寄与するような活動を促す、精神の復興連動のリーダーである」
「明るい社会はだれかがつくってくれるというものではない、気のついた人、目覚めた人がまず立ち上がって行動を開始し、他の人々にも根気よく呼びかけていかなければならない」「より良き未来に向かって進んでいると信じられる時には、人は山をも動かしますし、反対にもし希望がもてなければ、人は沈潜し腐敗する」

~~~~~~~~~~~~~~

もう40年近くの前のお話ですが、現在にあてはめても違和感のないお話だと思いませんか。


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また、以下の事も述べています。

~~~~~~~~~~~~~~

「山田恵諦貌下が常におっしゃっていた

『よいことは長く続く。よくないことでないと長続きしない』ということです。法華経というのは二もなく三もなく『一仏乗』なんです。仏さまの願いというものは、すべての人を仏の境地へ導き、本当の幸せにしてあげたいという一事につきるんです。『草木国土悉皆成仏』という言葉がありますように「人間はむろん、草も木も水も士もすべて仏になれるんです。」

そして、「そういうことです。いわば、明るい社会づくりの大導師は仏さまなんですよ。」

とおしゃっています。

【結び】

庭野日敬氏の説く「人のあるべき道」に付いて、具体的な事例に基づいてお話をさせていただきましたが、ご理解いただく事は出来たいでしょうか。

こころ静かに考えて下さい。

多くの方を裏切って来た事を、こころからお詫びし、改心する事が庭野日敬氏の願いではありませんか、また、その事が御仏様の願いだと思います。

その為にも、真摯な対応をする事が不可欠になります。

こらからの時代に担う方々の為にも、この汚点を払拭する事を切に願っています。

庭野日敬師の提唱した、明るい社会づくり運動を失敗に終わらせる事など私には、断じて考えられません。

☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡

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・庭野日敬氏の言葉-ご縁をかみしめる [庭野日敬師の言葉]

・庭野日敬氏の言葉-ご縁をかみしめる

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時の過ぎるのは早いもので9月も下旬になりました。まだまだコロナ過の状況も、インフルエンザの感染も不安な時をお過ごしの方も多いと思います。そんな時に、こころの支えになるのが庭野日敬の説く法華経ではないでしょうか。

庭野日敬の説く法華経では、
強く打てば、強く帰って来ますが、弱く打てば、弱く帰って来ると教えていただいています。貴方は法華経を、どのように打ち・どのように響かせますか。

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わが身を振り返って見ると、
私たち達は、様々な人たちにお世話になり、また、色々なかかわりを持ちつつ、今日を向かえる事が出来ます。そんな事を思いつつ、庭野日敬氏の言葉を思い出しましたのでご紹介します。


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- ご縁をかみしめる -

1968年(昭和43年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


私は、恩師の新井助信先生との出会いによって、法華経に導かれて目を見開かされ、そして妙佼先生という、またとない修行の友に磨かれて、今日の幸せに導いていただきました。

それにさらに、佼成会というサンガのみなさんに助けていただいて今日を迎えさせていただいているわけです。

その私と同じように、みなさんもまた、さまざまなご縁によって今日があるわけで、その縁のありがたさをもういちど振り返り、かみしめていただきたいと思うのです。

自分をこの世に生みだしてくださった両親、この法に遇いえたその縁をつくってくださった導きの親御さん、そして、どんな人も幸せに導く法をお説きくださった教主釈尊の大恩……

考えていくと、自分がどれほどの大恩によって生かされ、支えられ、導かれているか思い知らずにいられません。

ふだん、つい忘れがちな過去をあらためて検証し直して、自分が受けた恩をかみしめる瞑想修行がありますが、一年の終わりを迎えて、一日、じっくりと自分を振り返ってみたいものです。

そこから真の自他一体感がわき起こって、さらに新たな精進の決意が湧いてくるのです。

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いかがでしょうか。あなたにどのように響いたかが、大切になります。漠然と過ぎ去っていく毎日ですが、時には、心静かに「ご縁をかみしめる」事が出来たら素敵な日々になると思います。

☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡

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・羅針盤となる教えの大切さ、瀉瓶無遺より-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・羅針盤となる教えの大切さ、瀉瓶無遺より-庭野日敬氏のお言葉

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私の背中を押し続ける方がいます。その方が、どこのどなたなのか、私には知る術がありません。その事について、私自身にも葛藤がありますが、その方に導かれる事によりこのブログを綴っています。

庭野日敬氏は、法華経を、私達凡夫にも、とても分かりやすく伝えています。また、後々の世の人たちの為に膨大な書物を残しています。その、どの書物を手にしても庭野日敬氏の真心が伝わって来ます。

その中で、世の中の現在の状況を、只、只、見守る事だけしか出来ない教団を、とても、悲しく・寂しく思っています。

世の中は、いつまでも同じ状態ではいません。諸行無常、時の流れは日々前に進んで行きます。時代の最先端を歩むのではなく、時代の流れに沿って歩む事が必須になります。

今、何をすべきか。今、何が出来るのか。模索しつつ、可能な活動を始める時ではないでしょうか。私の背中を押し続ける方からは、そんな声が伝わって来ます。

今日は、そんな中から瀉瓶無遺に綴られている一説をご紹介いたします。

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羅針盤となる教えの大切さ

瀉瓶無遺  佼成出版社 発行:1993.11  P128~129


 
地球をはじめとして星にもそれぞれ軌道があるように、人間にも人間として守るべき倫理規範というか歩むべき道があります。もしも、この世に基準となるべき物差しや秤がなかったならは、私たちは社会生活をスムー ズに営むことはできません。

とかく人は、実現できない大きな目標を単なる理想論にすぎない、といって片つけてしまいがちですが、理想があればこそ、それをめざして歩くことができ、また自分の足りなさを省みることができるのです。

とくに大乗仏教では、到達するということよりも、それに向かって歩きつづけること自体(精進)を、尊く、大切なものとしております。

私たちは星に行くことはできませんが、夜空に星が輝いていればこそ暗夜の旅路を迷みずに歩けるのです。人がこの世に生きるためには、羅針盤となる教えが必要です。

そういう意味で人間としての理想像である仏さまを恭敬(くぎょう)する大切さがあるわけです。その理想像に比べて自分かいかに未熟であり、足りないだらけであるかを知ることができます。だからこそ、人から「謙虚になりなさい」と言われなくても、おのずから謙虚になれるのだと思うのです。

仏教学者の中村元先生が、「愚かなる者も自分は愚かであると知っていれば、それは賢者である。愚者でありながら、しかも自分は賢者であると思う者こそ愚者と言うべきである。」という『法句経』に一部を紹介しておられました。

私は足りない人間だと謙虚さを忘れないことこそ、そして真正直であること、それが人間成長に欠かせない要件だと私は思うのです。

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いかがでしょうか。このブログは、多くの教団関係者の方々も見ている事と思っています。只、黙って指導部からの指示に従っていれば良いのではありません。

自らが、自らの、信念に従って法華経に書かれている事を行動に移さなくては、お釈迦様や庭野日敬氏や法華経を裏切る事になります。

法華経とは、だれかに言われたから始めるのは初心者の歩む道です。

いつまでも、初心者であってはならない。

法華経とは、菩薩の発心の教えとも言われています。〖注-1〗
      自ら、行動を起こす事を説いています。
      自ら、行動を起こす事により共鳴者が現れます。
      この事が法輪を転ずる事に繋がっていきます。

仏飯をいただくものとして、〖注-2〗恥ずべき事が無いように行動すべきと考えています


〖注-1〗発心とは、
(仏語。 悟りを得ようとする心を起こすこと。 菩提心 (ぼだいしん) を起こすこと。 仏門に入ること。)参考-菩薩の発心について-大谷大学のページ

〖注-2〗仏飯をいただくもの
(仏様の事をして生計を立てている人。例-僧侶・宗教や教団等の関係者)


瀉瓶無遺 佼成出版社 発行:1993.11
瓶の水を一滴も残さず次の瓶に移すように、立正佼成会の教えを次の世代に伝えたいという願いが、書名『瀉瓶無遺(しゃびょうむい)』にこめられています。仏教徒として、佼成会員として守り伝えるべき信仰の核心について、信仰者の毎日の行の一つひとつについて、具体的に説き示されています。


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・お釈ま迦さまが説かれた私達の歩むべき道について-庭野日敬のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・お釈迦さまが説かれた私達の歩むべき道について-庭野日敬のお言葉

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9月も半ば過ぎますと夜明けが、ずいぶんと遅くなって来ました。でも、残暑は続いています。先日、トイレの給水用のタンクがお湯になってしました(*_*)。猛暑で体調の崩れやすい時期ですが、無理をしないでお過ごし下さい。

そして、素敵日にしていきましょう

庭野日敬氏の説く法華経の教えはとても素晴らしいです。

具体的に言いますと、とても分かりやすく説いて下さる事です。さらには、行動や実践しやすい事です。そんな事を踏まえて今回は、庭野日敬の説く法華経を理論や理屈ではなく、こころ穏やかに真心で味わってみたいと思います。

きっと、新たな発見があると思います。

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お釈迦さまが説かれた歩むべき道について


        
1978年(昭和53年5月号)躍進


行動につながらない教学は無意味です。実際に人間を救うことにつながらない宗教は、無さに等しいのです。従地涌出品は、そのことを強く教えているのです。経文には「この菩薩達は、もと姿婆世界の下の虚空に住していた」とあります。

ということは、人間世界に生きていなから、そして立派な悟りと人格を持ちながら、それを人間救済のために発動することがなかった・・・・・ということなのです。つまり、行動につながらない悟りと、他を救うということにかかわらない人格の持ち主だった、というわけです。

それが、お釈迦さまの呼びかけに応じて、いっせいに大地をくぐり抜けて出てきました。この大地をくぐり抜けるということが、また大事なのです。

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現実の社会生活を体験する、

現実の社会生活を体験し汚濁と苦悩の中にあえいでいる大衆の中に飛び込み、その苦しみ、悩みにじかに触れなければ、現実に人を救うことはできないということです。

観念論だけではだめで、

観念論だけではだめで、現実に即さなければ人間は救えないということです。現実に即するということは、結局は、行動するということになります。地涌の菩薩達の指導役である四大菩薩に、上行 ・ 無辺行 ・ 浄行 ・ 安立行と、すべて「行」 という名がつけられています。

ということは、つまり、地涌の菩薩とは行動する菩薩だということなのです。行動しない菩薩というものはあり得ないわけですけれども、それが特に強調され、行動の権化ともいうべき存在が地涌の菩薩なのです。

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地涌の菩薩の片鱗

そうした点から見ますと、今度(註・昭和53年5月)の青年部員の行動(註・「青年の日・統一行動」)は、地涌の菩薩の片鱗をのぞかせた立派なものでした。清掃奉仕・献血・交通安全キャンペーン・交通遺児のための募金・独居老人の慰問等々、時代のニーズに応えたすばらしい菩薩行です。
そういった行動を通じて「青年達は、地涌の菩薩の自覚をおぼろげながらつかむことができた」ということですが、それは当然のことなのです。

もともと本質的に地涌の菩薩なのですから・・・・・・・。

本人達は、まだ自覚していなくても、立正佼成会の青年部の皆さんは、そうした自覚を持つぺく、必然的な宿命を持ってこの世に生まれてきているのです。

過去世において、

生まれ変わり、死に変わりした過去世において、仏法に触れ、道を究めることを志願し、その修行を続けてきた、いわゆる歴劫修行(りゃこうしゅぎょう)の道程にある人達です。それが、しかるべき因縁をもってこの世に生れ、佼成会に入会されたのです。


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現代の科学教育を受けた人の中には、

と言うと、現代の科学教育を受けた人の中には絵空事のように思う人があるかもしれませんが、これは事実なのです。事実それがなければ、お釈迦さまが、いろいろな経典で輪廻転生や歴劫修行を説かれるはずはありません。あのような大覚者はチャンとそのことを見とおしておられたのです。

仏さまの超能力である六道の中に「宿命通」というのかあります。前の世のことを知る能力です。そうした能力を持っておられればこそ、法華経の中でも何十か所かにおいて、ご自身やお弟子達の過去世のことをお説きになっておられるのです。

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例えば、

〇譬喩品には、「舎利弗、我昔汝をして仏道を志願せしめき」とおおせられ、

〇化城諭品では、大通智勝仏時代の十六王子のことを述べられ、「第十六は我釈迦牟尼仏なり」とお話しになっています。

〇提婆達多品では、大法を教えた仙人が提婆で、仙人の召硬として仕えた国王が、ご自分であったことを明らかにされ、

〇常不軽菩薩品では、「爾の時の常不軽菩薩は荳に異人ならんや、則ち我が是れなり」と、おおせられています。

このような「人間は死んでもまた他の生命に生まれ変わる(転生輪廻) 「転生しながら人格完成(作仏)へ の修行を続ける(歴劫修行)」という事実を前提としてこそ、舎利弟を初めとする多くのお弟子達に、汝はこれこれの時代に生まれ変わり、これこれの仏に仕えて修行したのち、仏の悟りを得るであろとって・・・・・と保証された「授記」が成り立つのです。

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今、現実の形態はどうであれ、

人間は今、現実の形態はどうであれ、その根底においては、人格完成という聖なる目的のために生きるのです。生まれ変わり、死に変わり、修行の旅を続けるのです。人は、すべてこの本願をもって、この世に生まれてきているのです。

自分を次第に見失っていきます。

ところが、さまざまな環境に影響されて次第に汚れをかぶってしまい、その自分を次第に見失っていきます。ですから、地涌の菩薩たらんと志願するということは、この汚れを洗い清め、純粋な無垢清浄な自己の本性に戻ること、と言ってもいいでしょう。

今、生きる人々に即して、

それを現代に生きる人々の生き方に即して言うならば、これまでの既成概念に毒されて、宗教の違い、人種の違い、国の違いなどで人々を区別して見るのではなく、この世のあらゆる人々の本性、宗教の役割の本質をしっかりと見とおしていける人となることであり、そうした人こそ地涌の菩薩たり得る人と言っていいと思うのです。

そういう力によって、

初めて明るい社会づくり、平和世界の建設が進められていくのです。



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・お釈迦さまへの直参-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

・お釈迦さまへの直参-庭野日敬氏のお言葉

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おはようございます、

先ほど、目が覚めました。

なんか、同じような夢をぐるぐる[台風]見ていたような気がしています。(内容はよく覚えていません)でも、ぐっすり眠れたようです。

日頃、慌ただしく過ごしていますと、どうしても、こころもからだもカサ付いて来ます。

今の世の中では、一人では生きて行くことは出来ないと思っています。そこで、可能な範囲でより多くの方を支えながら、また、逆に支えてもらいながら、生きて行くのだと思います。

その為にも、庭野日敬氏の教えや・お釈迦さまの教えは不可欠になります。

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私は常々思う事ですが、師の教えを大切に伝えていく事がとても大事だと思っています。

何故、こんな事を言うかと言いますと、人は、ともすると自分を導いてくれた師や、教えを乗り越えて、すぐれているのは自分自身であるとの錯覚に、いつの間にか陥りやすい物だと受け止めています。

その点、庭野日敬氏は、ご自身を法華経に導いてくれた師を最後の最後まで大切にされてきました。

また、法華経に書かれている事をとても大切にし、法華経よりは前に出る事はありませんでした。その事は、一見たやすい事のように思えるでしょうが、とても大変な事だと思います。

それは、世間の宗教指導者の姿や言動を拝見していますと良くわかります。例えば、式典などの時だけ表面上は取り繕うが、・・・・・・・。

とても残念に思っています。

法華経は、謙虚に、謙虚に、謙虚に、

行動は果敢に、

勇気を持って進む事が大事ではないでしょうか。

そこに、ご守護があるのだと思います。

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開 祖 さ ま 随 感

      1978年(昭和53年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


お釈迦さまへの直参(じきさん)


なにごとも伝統を守り、それを踏襲するのは大切なことですが、それは宗教の場合も同じです。

ただ宗教は芸能などとは違い、生きている人間を実際に救わなくてはなりません。人は、その時代、その環境の中で生活しています。その人たちを実際に救うのには、その時代、その社会環境に応じた手段が必要です。

これまで大事に守られてきた教えであっても、そのままでは、時の経過とともに時代の人びとを教化する力が弱くなっている場合もあります。

宗教の宗は、時代を超え、所を超えて、不変なよりどころとなる根本の真理のことであり、教は、その真理をその時代、その人に応じて説くことです。

この、時代に対応し、人に応じて説く大切さを忘れてしまって、いたずらに人びとが宗教から離れていくのを嘆くようなことがあってはなりません。

私が、お釈迦さまのみ心に直参する大切さをいつも強調しているのも、そこなのです。

直参するとは直接教えを聞くことです。

常に自分のあり方を法に照らしてみて、これでよいのかと問いかけ続けるのが、お釈迦さまのお心に直参することです。

それによって教えが常に新しい教化力を保っていくのです。

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いかがでしょうか。

常に、お釈迦さの声に耳を傾けているでしょうか。

お互い頑張りましょう。

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