仏法は無力か-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]
庭野日敬氏の教えは、私の人生の大きな心の支えになっています。
長い人生には上り坂もあれば、下り坂もあります。
また、まさかと言う坂まであります。
そんな人生の折り目や節目の様々な出来事の中で、
迷う時や、戸惑う時、たじろぐ時など、
庭野日敬の説く教えを紐解きながら歩んで来ました。
今日は庭野日敬氏の、
こんな言葉が私の胸の響きましたのでお知らせを致します。

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開 祖 さ ま 随 感
1969年(昭和44年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より
仏 法 は 無 力 か
今日、仏教はすでに大衆を救う力を失ってしまった、
という人がいます。
これは、とんでもない間違いだと思うのです。
大衆を救う力が仏法になくなったのではありません。
しかし一方、仏法をしっかりと持ち、
日常の生活上に実践している人が
少なくなっていることも残念ながら認めざるを得ません。
たとえば交通事故は、
人が交通法規を守らないために起こるわけですが、
同じように、人も人の道を守らないがゆえに
苦しみや不幸に自ら突き当たってしまうわけです。
その人の道の根本義を示すのが仏法で、
その道をあゆめばみんなが幸せになれるのに、
多くの人がそれを知らずに不幸に陥っているのです。
ですから、
私たち仏教徒が人の道にのっとって生活し、
その姿を世の人びとに見てもらうことが、
まずもって大事です。
毎日の生活で法に示されたとおりに実践すると人は
どれほど幸せになれるか、
それを自らの姿で示せる人間になることが、
私たち仏教徒のつとめです。
仏法の縁に触れ、その教えを聞いても、それを守り、
実践することがなくては、自分の幸せもなく、
仏教徒としてのつとめも果たすことはできないのです。
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長い人生には上り坂もあれば、下り坂もあります。
また、まさかと言う坂まであります。
そんな人生の折り目や節目の様々な出来事の中で、
迷う時や、戸惑う時、たじろぐ時など、
庭野日敬の説く教えを紐解きながら歩んで来ました。
今日は庭野日敬氏の、
こんな言葉が私の胸の響きましたのでお知らせを致します。

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開 祖 さ ま 随 感
1969年(昭和44年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より
仏 法 は 無 力 か
今日、仏教はすでに大衆を救う力を失ってしまった、
という人がいます。
これは、とんでもない間違いだと思うのです。
大衆を救う力が仏法になくなったのではありません。
しかし一方、仏法をしっかりと持ち、
日常の生活上に実践している人が
少なくなっていることも残念ながら認めざるを得ません。
たとえば交通事故は、
人が交通法規を守らないために起こるわけですが、
同じように、人も人の道を守らないがゆえに
苦しみや不幸に自ら突き当たってしまうわけです。
その人の道の根本義を示すのが仏法で、
その道をあゆめばみんなが幸せになれるのに、
多くの人がそれを知らずに不幸に陥っているのです。
ですから、
私たち仏教徒が人の道にのっとって生活し、
その姿を世の人びとに見てもらうことが、
まずもって大事です。
毎日の生活で法に示されたとおりに実践すると人は
どれほど幸せになれるか、
それを自らの姿で示せる人間になることが、
私たち仏教徒のつとめです。
仏法の縁に触れ、その教えを聞いても、それを守り、
実践することがなくては、自分の幸せもなく、
仏教徒としてのつとめも果たすことはできないのです。
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タグ:庭野日敬
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