人間と人間の対話-庭野日敬氏のお言葉 [庭野日敬師の言葉]
法華経が尊いのは、法華経自体が尊いのではありません。
その法華経を説く人が尊いことが不可欠になります。
例えば、
庭野日敬氏のお話は、いつ耳にしても得心が行きます。
しかし、
別の庭野家の人たちのお話は、
いつ聞いても、何度聞いても、私のこころには響きません。
自分でも不思議だと思っていますが、正直な気持ちです。
新型コロナウイルス肺炎の事で、
世界中が混とんとしています。
でも、その中でも必死に頑張っている方々がいます。
政府関係者、都道府県関係者、医療関係者、介護関係、等々、
でも只、黙って身を潜めている事に
終始している佼成会(教団)さんの姿には、
とても、残念に思っています。
これで、本当に良いのでしょうか。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
開 祖 さ ま 随 感
1986年(昭和61年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より
人間と人間の対話
いま宗教にいちばん問われているのは、
人間と人間の真の対話を可能にできるかどうか、
だといえましょう。
法座はその対話の場なのです。
どんな問題であっても、
話したいこと、
聞きたいことがある人がいたら、
その言い分をとことん聞いてあげて、
「なるほど」と心から納得してもらえるまで話してあげる。
それが法座です。
相手の言葉をひと言ふた言聞いただけで、
「あとは聞かなくたって分かっていますよ」といった
調子で決めつけてしまったのでは、
人間の対話は成立しません。
お釈迦さまは、
お弟子がどんな質問をしてきても、
「善哉、善哉」と、
ひと言でなく、ふた言も重ねておほめになって、
それから「善男子よ……」と、
じゅんじゅんと語りかけてくださいました。
ですから、
お釈迦さまにお会いできただけで、
どんな人もいっぺんに心が晴れわたってしまうのです。
すべての人が、
それぞれの尊厳さを具えた存在であることを
胸にしっかり刻みつけて、
相手を心から礼拝できなくては、
人間の対話は成り立ちません。
その法華経を説く人が尊いことが不可欠になります。
例えば、
庭野日敬氏のお話は、いつ耳にしても得心が行きます。
しかし、
別の庭野家の人たちのお話は、
いつ聞いても、何度聞いても、私のこころには響きません。
自分でも不思議だと思っていますが、正直な気持ちです。
新型コロナウイルス肺炎の事で、
世界中が混とんとしています。
でも、その中でも必死に頑張っている方々がいます。
政府関係者、都道府県関係者、医療関係者、介護関係、等々、
でも只、黙って身を潜めている事に
終始している佼成会(教団)さんの姿には、
とても、残念に思っています。
これで、本当に良いのでしょうか。

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開 祖 さ ま 随 感
1986年(昭和61年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より
人間と人間の対話
いま宗教にいちばん問われているのは、
人間と人間の真の対話を可能にできるかどうか、
だといえましょう。
法座はその対話の場なのです。
どんな問題であっても、
話したいこと、
聞きたいことがある人がいたら、
その言い分をとことん聞いてあげて、
「なるほど」と心から納得してもらえるまで話してあげる。
それが法座です。
相手の言葉をひと言ふた言聞いただけで、
「あとは聞かなくたって分かっていますよ」といった
調子で決めつけてしまったのでは、
人間の対話は成立しません。
お釈迦さまは、
お弟子がどんな質問をしてきても、
「善哉、善哉」と、
ひと言でなく、ふた言も重ねておほめになって、
それから「善男子よ……」と、
じゅんじゅんと語りかけてくださいました。
ですから、
お釈迦さまにお会いできただけで、
どんな人もいっぺんに心が晴れわたってしまうのです。
すべての人が、
それぞれの尊厳さを具えた存在であることを
胸にしっかり刻みつけて、
相手を心から礼拝できなくては、
人間の対話は成り立ちません。
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