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・庭野日敬氏の明るい社会づくり運動への機縁(2) [インタネット講座「拓塾」]

・庭野日敬氏の明るい社会づくり運動への機縁(2)

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インターネット講座「拓塾」を始めてから、さらにたくさんの方々にこのブログを読んでいただけるようになりました。

ご覧いただいている皆さんのブラウザーの反対側いる私ですが、さたくさん方が、本当に真剣にお読みいただいている事が、不思議と、こちら側に伝わってくる気がしていますので、感謝をさせていただきつつ、気持ちを引き締めている現状です。

 また余談ですが、以前からあった事ですが、インターネット講座「拓塾」を始めてからは特に、どなたかは分かりませんが、私の後ろにいらっしゃる方の働きが強くなった気がしています。

「さらに、守られている。」そんな気がしています。

前回の書き込みをしました直後から、私の頭の中に「末法についての説明をしたらどうか。」との、思いが何度かよぎってきています。

このインターネット講座 拓塾の行動指針のなかで、「自修自得」を唱っていますのでご覧いただいている方々が、「自身で深く探求する意欲が無ければ、何事もなさん」との、立場に立っていますので、

私のお話する事の中で、<不明確な点や疑問点があれば、ご自身で究明し深く探求する事を希望します。

しかし、私の後ろにいらっしゃる方々がさらに、「末法についての説明をしたらどうか。」との要望が強いように感じますので、庭野日敬師がご自身の著書の中で以下の事を述べていますので、以下に、ご紹介させていただきます。

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新釈 法華三部経 8巻  (P306~311)より

お釈迦さまは、ご自分が入滅されてからあとの時代を予見なさって、五つの五百歳に分けておられます。すなわち、《大集経》というお経のなかで、つぎのようにお説きになっておられるのです。

(我が滅後五百年の中に於て諸の比丘衆、猶我が法に於て解脱堅固なり。後の五百年に我が正法の禅定三昧住することを得て堅固なり。後の五百年には読誦多聞堅固なり。後の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟し白法穏没し損減すること堅固なり)

これをわかりやすいように表にしますと、つぎのようになります。


第一五百歳 - 解脱堅固時  (正法)

第二五百歳 - 禅定堅固時  (正法)

第三五百歳 - 多聞堅固時  (像法)

第四五百歳 - 多造塔寺堅固時(像法)

第五五百歳 - 閥諍堅固時  (末法)             


   (P306 )

この五五百歳のうち、解脱堅固時)と(禅定堅固時)を合わせた千年を、正法といいます。仏陀の教法が正しく行なわれている時代というわけです。

つぎの(多聞堅固時)と(多造塔寺堅固時)を合わせた千年を、像法といいます。像だけが正法のときに似ている時代です。(P311 ~P312)

その五百年も過ぎてしまうと、もはや形式的な宗教さえおおむね無視されてしまう時代になるというのです。

仏教そのものについていえば、(我が法の中に於て閥諍言訟し白法隠没し損滅すること堅固なり)で、宗派争い(閥諍)が盛んになり、それも、言論闘争から政治闘争・法廷闘争(言訟)にまで発展し、ゴタゴタが絶えないわけです。

そして、正しい法(白法)はどこにいったかわからぬようになってしまうのです。

しかし、仏法はけっしてなくなってしまうのではありません。かくれ、見失われてしまうだけであります。

(隠)もかくれるという意味ですが、

(没)もかくれるとか沈むという意味のことばです。

なくなるという意味に使われることもありますが、しかしその場合でも、ぜんぜん無に帰してしまうのでなく、見えないところへかくれてしまうという意味をもっているのです。


これは、こまかい語意のせんさくのようですが、けっしてそうではなく、ひじょうに重大な意義をもっているのです。なぜならば、白法(仏法)が(ぜんぜんなくなってしまう)というのと、(かくれて見えなくなってしまう)というのでは、天地ほどの差があるからです。


いや、無と有のちがいですから、天地の差とも比較はできますまい。


ともあれ、仏法はけっしてなくなることはないのです(白法消滅)でなく(白法隠没)となっているところに、よくよく注目しなければならないのです。

さて、聞潜堅固というのは、たんに仏教および仏教界だけについていってあるのではなく、ひろく世相全般についての予言でもあるわけです。

その時代になりますと、人びとはまったく利己的になり、自分の利益・自分一家の利益の団体の利益・自分の国の利益・自分の属する階級の利益等々ばかりを追求するために、たがいの利害が情実し、つねにいがみあうようになります。我と我のつのつきあいです。


言論闘争・政治闘争・法廷闘争は日常のこととなり、人心はたいへん険悪な、トゲトゲしいものになります。いや、それですむうちはまだいいのですが、ついには血を流すような不祥事が起こり、またそれが国際的なものであれば、ついに人間どうLが殺しあう戦争にまで発展してしまうのです。

ちょうど、現代がその時代に当たりましょう。

(P306~P311 )

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私は、庭野日敬師は法華経の真意を体得され、その事に基ずいて行動されていた。と、理解しています。

しかるに、「日蓮聖人のご遺文に説かれている末法の時代、つまり人びとが自分勝手な理屈を主張いたし、神仏を敬う念や倫理、遺徳がすたれて、穏やかならざる世の中になるという様相が、すでに表われていたのであります。

[明るい社会づくり運動の提唱は、こうした心の荒廃に対して問題を提起するとともに、・・・・・・」になっていると理解しています。

「末法」という言葉に、必要以上にとらわれる事はないと思いますが、やはり、私は、これからの明るい社会づくり運動には、このような視点や感性を持ち合わせるリダーが必要不可欠だと思っています。


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