・庭野日敬師の提唱した明るい社会づくり運動を進める上でとても大切な事 [庭野日敬師の言葉]
・庭野日敬師の提唱した明るい社会づくり運動を進める上でとても大切な事
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精神的な偏食
『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」には、「真実の教えはただ一つであって、二つも三つもあるわけではない。
ただ仏の智慧に到達するまでの手段として、相手に応じていろいろな説き方の違いがあるが、その説き方の違いも究極の真実に導くためなのである」と説かれています。
この世にはさまざまな宗教がありますが、それぞれの違いは、その時代、その社会を生きる人たちを究極の真実の道に導くためのものだといえましょう。
それぞれの宗教が互いに違いを言い立てて対立し、協力を拒むといったことがいかに無意味であるか、この仏さまのお言葉をかみしめると、よく分かってきます。
信仰とは、帰依する対象を信じきってそれを貫き通すことです。
また、その心構えでなくては真の信仰とはいえません。
しかし、そこで一歩誤ると、自分の教えの絶対性を主張して他を認めようとしない排他独善の信仰に陥ってしまいます。
それは、言ってみれば精神的な偏食のためにやせ細り、視野の狭い人間になってしまうようなものです。
くれぐれも注意しなければなりません。
衣裏繫珠のたとえ
法華経には『法華七喩』という七つのとたとえ話があります。お釈迦様が私たちに法華経の教えをわかりやすく説くために、七つの話にたとえたと言われています。
その中に「妙法蓮華経五百弟子受記品第八」の『衣裏繫珠のたとえ』というお話があります。
ある時、諸国を放浪していた貧人(成仏できないとされてきた人たち)がいました。旅の最中、貧人は旧友(過去の仏)と出会い、酒を酌み交わし、気がつけば眠ってしまいました。旧友は貧人を気にかけて、いざという時に役立つようにと、高価な宝珠を貧人の衣服に縫い付けました。次の日、貧人は旧友が眠っている間に席を立ち、再び旅へと出かけていきました。
それから時は経過し、貧人は旧友と再会することとなりまし。旧友は、「衣服に綣い付けた宝珠は役に立ったかい」と尋ねましたが、貧人は全く気づいておらず、そこで衣服を確認した所、宝珠を見つけ、その後は裕福な生活(成仏)を送ることができました。
誰もが備えている宝珠
このたとえ話は、これまで成仏が叶わないとされてきた者が、実は過去世において、すでに仏による成仏の種を受けているにも関わらず、煩悩等の影響によってそれに気づいていなかったことをたとえたものです。
法華経は、全ての衆生は仏であることを説いた究極の教えです。宝珠があることに気づかなかった貧人のように、私達も情報過多の時代を生きる中、正しい教えを一途に信じることかできない存在です。そんなはかない存在である私達でも、このたとえに説かれているように、必ず仏になることができることを、約束されていること自覚し、本来の目的に向かって行くことが求められる時だと考えています。
庭野日敬氏は、ご自身の著書で以下の事を述べています。
庭野 日敬 著
衣裏繫珠諭の奥の意味
それではここで、〈衣裏繋珠の譬え〉にこめられた教えを、くわしく解説してみることにしましょう。
仏性こそ無価の宝珠
無価の宝珠というのは、すべての人間が宇宙の大生命(仏)からひとしくあたえられている仏性のことです。われわれは、ひとりのこらずそれをもっているのです。
けれども、なかなかそれを自覚できません。なぜ自覚できないかといえば、われわれが酔って眠りこけているからです。目がひらいていないからです。
われわれは、現象としてあらわれているこの肉体が自分の本体だとおもいこんでいます。心はその肉体に附属しているものとおもいこんでいます。そこで、ただもうその肉体と心を満足させるために、欲望を追って右往左往し、衣食に追われてアクセクしています。それが、真理にたいして目をひらいてないということです。酔って眠っているということの意味です。
そんな状態でいるかぎり、われわれはけっして幸福になれるものではありません。なぜかといえば、現象としてあらわれているこの身・この心は、確固として実在するものではないのですから、その確固として実在しないものを自分の本体と考えて、けんめいにそれを満足させよう努力してみたとこで、絶対に満足ということはありえないからです。
この身体は、いつかかならず死によって崩れさるものです。心にいたっては、いっそう激しくうつり変わるものです。あるときは喜びに満ち満ちていても、周囲の条件が変化すれば、たちまち悲しみや悩みにとざされてしまいます。ある欲望がたっせられても、そのとたんに、 モットモットという貪欲が起こり、あるいは別な欲望が新しく湧いてきて、結局はいつまでも満足することはありません。
庭野日敬師は、ご自身の信仰体験から世界宗教者平和会議や明るい社会づくり運動の活動に至っています。
私たちは、その事を踏まえて、庭野日敬氏の真心を理解し、世界宗教者平和会議や明るい社会づくり運動の推進者として本物になって行く事が、求められているように思います。
あなたのこころは、どのように感じる事が出来ましたか。
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庭野日敬師は、開祖隋感で私達が明るい社会づくり運動を進める上で、
とても大切な事として以下の事をおしゃっています。
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精神的な偏食
庭野 日敬 著 『開祖随感』1968年(佼成出版社) より
『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」には、「真実の教えはただ一つであって、二つも三つもあるわけではない。
ただ仏の智慧に到達するまでの手段として、相手に応じていろいろな説き方の違いがあるが、その説き方の違いも究極の真実に導くためなのである」と説かれています。
この世にはさまざまな宗教がありますが、それぞれの違いは、その時代、その社会を生きる人たちを究極の真実の道に導くためのものだといえましょう。
それぞれの宗教が互いに違いを言い立てて対立し、協力を拒むといったことがいかに無意味であるか、この仏さまのお言葉をかみしめると、よく分かってきます。
信仰とは、帰依する対象を信じきってそれを貫き通すことです。
また、その心構えでなくては真の信仰とはいえません。
しかし、そこで一歩誤ると、自分の教えの絶対性を主張して他を認めようとしない排他独善の信仰に陥ってしまいます。
それは、言ってみれば精神的な偏食のためにやせ細り、視野の狭い人間になってしまうようなものです。
くれぐれも注意しなければなりません。
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衣裏繫珠のたとえ
法華経には『法華七喩』という七つのとたとえ話があります。お釈迦様が私たちに法華経の教えをわかりやすく説くために、七つの話にたとえたと言われています。
その中に「妙法蓮華経五百弟子受記品第八」の『衣裏繫珠のたとえ』というお話があります。
ある時、諸国を放浪していた貧人(成仏できないとされてきた人たち)がいました。旅の最中、貧人は旧友(過去の仏)と出会い、酒を酌み交わし、気がつけば眠ってしまいました。旧友は貧人を気にかけて、いざという時に役立つようにと、高価な宝珠を貧人の衣服に縫い付けました。次の日、貧人は旧友が眠っている間に席を立ち、再び旅へと出かけていきました。
それから時は経過し、貧人は旧友と再会することとなりまし。旧友は、「衣服に綣い付けた宝珠は役に立ったかい」と尋ねましたが、貧人は全く気づいておらず、そこで衣服を確認した所、宝珠を見つけ、その後は裕福な生活(成仏)を送ることができました。
誰もが備えている宝珠
このたとえ話は、これまで成仏が叶わないとされてきた者が、実は過去世において、すでに仏による成仏の種を受けているにも関わらず、煩悩等の影響によってそれに気づいていなかったことをたとえたものです。
法華経は、全ての衆生は仏であることを説いた究極の教えです。宝珠があることに気づかなかった貧人のように、私達も情報過多の時代を生きる中、正しい教えを一途に信じることかできない存在です。そんなはかない存在である私達でも、このたとえに説かれているように、必ず仏になることができることを、約束されていること自覚し、本来の目的に向かって行くことが求められる時だと考えています。
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庭野日敬氏は、ご自身の著書で以下の事を述べています。
庭野 日敬 著
『新釈 法華三部経 5 五百弟子受記品第八 P109~110』(佼成出版社) より
衣裏繫珠諭の奥の意味
それではここで、〈衣裏繋珠の譬え〉にこめられた教えを、くわしく解説してみることにしましょう。
仏性こそ無価の宝珠
無価の宝珠というのは、すべての人間が宇宙の大生命(仏)からひとしくあたえられている仏性のことです。われわれは、ひとりのこらずそれをもっているのです。
けれども、なかなかそれを自覚できません。なぜ自覚できないかといえば、われわれが酔って眠りこけているからです。目がひらいていないからです。
われわれは、現象としてあらわれているこの肉体が自分の本体だとおもいこんでいます。心はその肉体に附属しているものとおもいこんでいます。そこで、ただもうその肉体と心を満足させるために、欲望を追って右往左往し、衣食に追われてアクセクしています。それが、真理にたいして目をひらいてないということです。酔って眠っているということの意味です。
そんな状態でいるかぎり、われわれはけっして幸福になれるものではありません。なぜかといえば、現象としてあらわれているこの身・この心は、確固として実在するものではないのですから、その確固として実在しないものを自分の本体と考えて、けんめいにそれを満足させよう努力してみたとこで、絶対に満足ということはありえないからです。
この身体は、いつかかならず死によって崩れさるものです。心にいたっては、いっそう激しくうつり変わるものです。あるときは喜びに満ち満ちていても、周囲の条件が変化すれば、たちまち悲しみや悩みにとざされてしまいます。ある欲望がたっせられても、そのとたんに、 モットモットという貪欲が起こり、あるいは別な欲望が新しく湧いてきて、結局はいつまでも満足することはありません。
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庭野日敬師は、ご自身の信仰体験から世界宗教者平和会議や明るい社会づくり運動の活動に至っています。
私たちは、その事を踏まえて、庭野日敬氏の真心を理解し、世界宗教者平和会議や明るい社会づくり運動の推進者として本物になって行く事が、求められているように思います。
あなたのこころは、どのように感じる事が出来ましたか。
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2024-06-08 22:32
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