明るい社会づくり運動に1番必要な物はいったい何であろうか! [明るい社会づくり運動のポイント]
明るい社会づくり運動に1番必要な物はいったい何であろうか!
明るい社会づくり運動に、「一番必要な物はいったい何であろうか。」と、時々考える事があります。
それはおそらく、今までの明るい社会づくり運動にかかわって来た、色々な人達を見て来ているからだと思います。
真剣に考え行動を起こしてきた人、言われるまま参加してきた人、お付き合いで参加してきた人、名誉に魅かれてきた人、業務で参加してきた人など様々です。でも、おそらく共通な事は「明るい社会にして行きたい」、この気持ちは一緒だと思っています。
私は、庭野日敬師のお話を思い出します。
「善因善果、悪因悪果といって、五年、十年という長年月をとおして見ると、その因果の道理のとおりになっているものです。ですから私たちは、まず道理がきちんと通用する健全な社会をつくる努力と同時に、時の経過によって必ず善因は善果に、悪因は悪果となって現われることをいつも忘れずに毎日を送ることがなによりも大事だと思うのです。」
現在の、明るい社会づくりの運動の現状を返り見る時に、私は、庭野日敬師がおしゃっている「善因善果、悪因悪果」と言う、尺度で、今までの明るい社会づくりの運動の経緯を振り返って見る時に、「まさにそのとり」だと思わざるを得ません。良い事も、そうでない事も、その元(原因)があり、その結果(悪因・悪果)があるのだと思います。
たとえば、全国各地で、明るい社会づくりの運動の後継者不足の現実を返り見る時、その元(原因)はいったい何であったのかを、分析しその結果を厳粛に受け止める必要があると考えています。
そして、その元(原因)を改善すべき策を講じる事が今、求められている事である事は、誰の目から見ても一目瞭然の事実であると思います。また、それ以外にも地方組織の弱体化、有識者離れ、会員数の減少等など、同様な事だと思います。
「臭い者には蓋をする」的な事ではなく課題点を、しっかりと捉え、明るい社会づくりの運動の現状を把握する事が、まず、早急に求められている事だと思います。
庭野日敬師は、以下の事をおしゃっています。
「苦に向き合うことから逃げ回っていると、苦はどんどん増長していく。」庭野日敬師は的を得たお話をされています。
只、庭野日敬師がおしゃっている事、また庭野日敬師がなさろうとした事が、「とても尊く、とても難しい事業である。」事も真実だと思います。
私は、庭野日敬師が明るい社会づくり運動を提唱された当時、庭野日敬師の率いる教団内部から、「うちの会長は、またとんでもない道楽を始めてしまった。」と、公然と発言する教団幹部の方々がいたと言う事実や、庭野日敬師の提唱した、明るい社会づくり運動の事を理解した、ある青年職員が、その事を絶賛した事によって左遷させられた事実を、当時の、ごく近い立場の方から伺った事があります。
それらの事が示すように、庭野日敬師が提唱された明るい社会づくり運動の事を、教団内部の関係者の方々でさえ鬱陶しく思っている方々が、一方にいる事も事実である事を忘れてはなりません。
まして、 ・ ・ ・ ・ ・。
庭野日敬師が提唱された明るい社会づくり運動を推進する為には、私は、勇気がなければ出来ない事だと考えています。人は、楽を好みます。時の流れに任せての現状維持がもっと楽だと思います。また、「黙っていれば誰かがなんとかしてくれるだろう。」と、思っているうちは何も変わりません。
でも、このままではいけない。
もっと・もう少し明るい社会をつくらなければと、考えた時に求められるのは、本当の勇気です。
その勇気も、とても大きな勇気ではなく、自身の足元から出来る勇気です。あなたには、その勇気がありますか。
また、私は明るい社会づくり運動をやみくもに推進すれば良いと思っていません。漠然と明るい社会づくり運動と言えばあまりにも間口が広すぎます。良い事であば、なんでもOKでは節度がなさすぎると思っています。
庭野日敬氏のお考えを研鑽すべき
ではどのようにすべきかと言いますと、それは、庭野日敬師が明るい社会づくり運動をどのようにお考えになり、どのようにされようとしていたのかを、もっと研鑽すべきと思っています。
ご存じのように、庭野日敬師のお考えのベースには法華経があります。その法華経を突き抜けた先に世界宗教者平和会議があり、明るい社会づくり運動があると考えています。果たして、世界の宗教史の中で、また社会活動史の中で庭野日敬師のような活動をされた方はあったのでしょうか。
庭野日敬師のお考えを知れば知るほど、今後の方向はおのずと定まると考えます。
現在の明るい社会づくり運動のリダーとされる方々は、私からすると、あまりにも明るい社会づくり運動の事を知らなさすぎると思っています。また、庭野日敬師のお気持ちを無視し過ぎているのではないかと思っています。
たとえば今回、佐藤秀裕氏の著書が再版されますが、そこに書かれている事実さえ、ご存じの方は少ないと思っています。
庭野日敬師が、また先人の諸先輩の方々が明るい社会づくり運の為に、寝る間も惜しみ、どんなにご努力されていたのかをご存じでしょうか。
庭野日敬師が提唱された明るい社会づくり運動の現実と事実を知らずに、昨今の現実だけをみて、様々な事を判断されようとするならば、それは「片手落ち」と言わざるを得ません。
このブログをいつも、ご覧いただいている多くの方々にお願いです。
何卒、そのような事がないようなご精進をお願い申し上げます、
☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆
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明るい社会づくり運動に、「一番必要な物はいったい何であろうか。」と、時々考える事があります。
それはおそらく、今までの明るい社会づくり運動にかかわって来た、色々な人達を見て来ているからだと思います。
真剣に考え行動を起こしてきた人、言われるまま参加してきた人、お付き合いで参加してきた人、名誉に魅かれてきた人、業務で参加してきた人など様々です。でも、おそらく共通な事は「明るい社会にして行きたい」、この気持ちは一緒だと思っています。
私は、庭野日敬師のお話を思い出します。
「善因善果、悪因悪果といって、五年、十年という長年月をとおして見ると、その因果の道理のとおりになっているものです。ですから私たちは、まず道理がきちんと通用する健全な社会をつくる努力と同時に、時の経過によって必ず善因は善果に、悪因は悪果となって現われることをいつも忘れずに毎日を送ることがなによりも大事だと思うのです。」
現在の、明るい社会づくりの運動の現状を返り見る時に、私は、庭野日敬師がおしゃっている「善因善果、悪因悪果」と言う、尺度で、今までの明るい社会づくりの運動の経緯を振り返って見る時に、「まさにそのとり」だと思わざるを得ません。良い事も、そうでない事も、その元(原因)があり、その結果(悪因・悪果)があるのだと思います。
たとえば、全国各地で、明るい社会づくりの運動の後継者不足の現実を返り見る時、その元(原因)はいったい何であったのかを、分析しその結果を厳粛に受け止める必要があると考えています。
そして、その元(原因)を改善すべき策を講じる事が今、求められている事である事は、誰の目から見ても一目瞭然の事実であると思います。また、それ以外にも地方組織の弱体化、有識者離れ、会員数の減少等など、同様な事だと思います。
「臭い者には蓋をする」的な事ではなく課題点を、しっかりと捉え、明るい社会づくりの運動の現状を把握する事が、まず、早急に求められている事だと思います。
庭野日敬師は、以下の事をおしゃっています。
「苦に向き合うことから逃げ回っていると、苦はどんどん増長していく。」庭野日敬師は的を得たお話をされています。
只、庭野日敬師がおしゃっている事、また庭野日敬師がなさろうとした事が、「とても尊く、とても難しい事業である。」事も真実だと思います。
私は、庭野日敬師が明るい社会づくり運動を提唱された当時、庭野日敬師の率いる教団内部から、「うちの会長は、またとんでもない道楽を始めてしまった。」と、公然と発言する教団幹部の方々がいたと言う事実や、庭野日敬師の提唱した、明るい社会づくり運動の事を理解した、ある青年職員が、その事を絶賛した事によって左遷させられた事実を、当時の、ごく近い立場の方から伺った事があります。
それらの事が示すように、庭野日敬師が提唱された明るい社会づくり運動の事を、教団内部の関係者の方々でさえ鬱陶しく思っている方々が、一方にいる事も事実である事を忘れてはなりません。
まして、 ・ ・ ・ ・ ・。
庭野日敬師が提唱された明るい社会づくり運動を推進する為には、私は、勇気がなければ出来ない事だと考えています。人は、楽を好みます。時の流れに任せての現状維持がもっと楽だと思います。また、「黙っていれば誰かがなんとかしてくれるだろう。」と、思っているうちは何も変わりません。
でも、このままではいけない。
もっと・もう少し明るい社会をつくらなければと、考えた時に求められるのは、本当の勇気です。
その勇気も、とても大きな勇気ではなく、自身の足元から出来る勇気です。あなたには、その勇気がありますか。
また、私は明るい社会づくり運動をやみくもに推進すれば良いと思っていません。漠然と明るい社会づくり運動と言えばあまりにも間口が広すぎます。良い事であば、なんでもOKでは節度がなさすぎると思っています。
庭野日敬氏のお考えを研鑽すべき
ではどのようにすべきかと言いますと、それは、庭野日敬師が明るい社会づくり運動をどのようにお考えになり、どのようにされようとしていたのかを、もっと研鑽すべきと思っています。
ご存じのように、庭野日敬師のお考えのベースには法華経があります。その法華経を突き抜けた先に世界宗教者平和会議があり、明るい社会づくり運動があると考えています。果たして、世界の宗教史の中で、また社会活動史の中で庭野日敬師のような活動をされた方はあったのでしょうか。
庭野日敬師のお考えを知れば知るほど、今後の方向はおのずと定まると考えます。
現在の明るい社会づくり運動のリダーとされる方々は、私からすると、あまりにも明るい社会づくり運動の事を知らなさすぎると思っています。また、庭野日敬師のお気持ちを無視し過ぎているのではないかと思っています。
たとえば今回、佐藤秀裕氏の著書が再版されますが、そこに書かれている事実さえ、ご存じの方は少ないと思っています。
庭野日敬師が、また先人の諸先輩の方々が明るい社会づくり運の為に、寝る間も惜しみ、どんなにご努力されていたのかをご存じでしょうか。
庭野日敬師が提唱された明るい社会づくり運動の現実と事実を知らずに、昨今の現実だけをみて、様々な事を判断されようとするならば、それは「片手落ち」と言わざるを得ません。
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2024-04-02 21:15
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